かった。
語弊がある言い方になるかもしれないが、それは、僕がゴールデンウィークに知った、彼女
の家庭の背景を思えば、信じられないことだった。ゴールデンウィーク――四月二十九日から
五月七日の日曜日までの九日間。僕にとって春休みを地獄とするなら、それは悪夢のような九
日間であり、当の羽川翼にしてみれば、既に忘れ去っている記憶である。夢とは大概忘れてし
まうものだという意味でいうなら、やはりそれは悪夢というべきなのかもしれない。
九日間。
彼女は猫に、魅せられた。
僕が鬼に襲われたように、彼女は猫に魅せられた。怪異にはそれに相応しい理由がある――
この場合、彼女が抱えていた家庭の不和と歪みこそが、それに相応しい理由だったというわけ
だ。そう、誤解というなら、それこそが完全な誤解だった。いい人間は幸せな人間で、悪い人
間は不幸せな人間だなんて、そんな単純な二元論で、僕はそれまで、世界を捉えていたのかも
かくぜつ
ゆず
ごへい
ふさわ
ゆが
とら
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しれない。不幸せだからこそ、善良にならざるを得なかった人間がいるだなんて――その程度
のことにすら、僕は頭を回すことができなかったのだ。
それなのに。
羽川翼は僕に手を差し伸べてくれた。
あの春休みだって、彼女には、僕を助けている余裕なんてなかったはずなのに――それなの
に彼女は、僕をどん底のどん底から、引き上げてくれた。
僕はそれを忘れない。
この先、たとえ何があっても。
002
「あ……暦お兄ちゃん。待ってたよ」
「………………」
待たれていた。
時間は僕にとって記念すべき日になるはずの六月十三日、火曜日の放課後、今週末に控えた
高校生活最後の文化祭に向けての準備に、放課後の時間を目一杯ぎりぎりまで使っての下校時
刻、午後六時半過ぎ、場所は私立直江津高校の正門だった。そこで、つい今朝方まで、後輩の
神原駿河と共に三人で、怪異に関する時間を過ごしていた、僕にとっては妹の旧友である、千
石撫子が手持ち無沙汰な風に、僕を待っていた。
制服姿――である。
僕にとっては懐かしい、中学の制服。
この辺りでは珍しい、ワンピースの制服。
腰をベルトで絞っている――千石は、そこに重ねて、ウエストポーチを装着していた。そう
言えば、事情が事情なだけに、当たり前と言えば当たり前ではあるのだが、千石の制服姿を見
るのはこれが初めてだった。全体的に見た目の幼い千石に、ワンピースの制服はよく似合う。
帽子はかぶっていない。
しかし、その長い前髪で隠されて目元は見えない。どうやらこの子は、デフォでこの髪型ら
しい。……帽子を目深にかぶったり、前髪を垂らしたり、とにかく、他人と目を合わせるのも
他人に目を見られるのも、千石は徹底して恥ずかしいらしい。古今まれに見る恥ずかしがり
だった。
ぶさた
しぼ
ここん
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「よ……よお」
そんな風な、突然の千石の登場に思いの外びっくりしたので、挨拶がなんだか不自然になっ
てしまった。千石は門の陰になるような位置に立っていたので、勿論そんなつもりはなかった
のだろうが、角に潜まれて『わっ』と驚かされたみたいなタイミングになったのだ。
「何してんだ、お前。こんなところで」
「あ、うん……暦お兄ちゃん」
伏し目がちに、そんなことを言う千石。
伏し目も何も元々前髪で彼女の眼は見えないのだが。
内側からはちゃんと見えているのか?
うーん……でも、さすがに、自分が通う高校の前で『暦お兄ちゃん』呼ばわりされるのに
は、いささか気恥ずかしいものがあるな……。だからと言ってここで『そんな風に呼ばないで
くれ』と言ったら、この生まれたての子鹿のようにデリケートな千石を、傷つけてしまう恐れ
があるし……。
さっき、僕が千石を見てびっくりしたのとは対照的に、千石は僕を見て、明らかに安堵した
ようだった。そりゃあまあ、中学二年生が、高校を訪れるというだけでも相当な覚悟が必要だ
ろうが、それでも千石の場合、必要以上に、怯えてしまっていたようだった。そんなところに
追い討ちを掛けることもあるまい……幸い、時間も時間だ。文化祭の準備とは言え、中でも僕
は遅くまで残っていた方だから、知り合いがここを通る可能性は著しく低い。万一のことがあ
れば、僕のニックネームが『暦お兄ちゃん』になることが確定しそうだが、そのリスクは低い
だろう。
「そ、その……」
と言って、千石は黙る。
千石が多弁な方じゃないのはもうわかっているので、この沈黙には耐えなければならない。
これに耐えられず、沈黙を埋めようとこちらが喋れば、逆に千石は益々黙り込んでしまうだろ
う。しかし、例えとしては何だけれど、兎とかハムスターとか、気弱な小動物に対して接して
いるような気分だな……。
うーむ。
可愛がりてえ。
「改めて……お礼、と思って」
ようやく、千石は言った。
「暦お兄ちゃんに……お世話になったから」
「ああ、そういうことか……それでここで、いつ出てくるかもわからない僕を、ずっと待って
かげ
あんど
おび
うさぎ
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たのか? いつからいたんだよ。中学校が終わってからすぐだとしたら――」
「あ、ううん。今日、学校、休んだから」
「え?」
あ、そうか。
別に制服を着ているから学校帰りとは限らない。
「じゃあ、なんだ、お前あれから、学校行かなかったのか」
「うん……眠くって」
「…………」
その台詞だけ聞くと、なんだろう、南の島の大王の子供並に奔放な奴みたいだな……。ま
あ、一応睡眠は取ったとは言え、その睡眠があんな環境が悪い学習塾跡でペットボトルを枕に
多人数での雑魚寝だったと来れば、繊細極まりない千石のこと、眠りが浅くても仕方あるま
い。僕だってよく眠れずに家に帰ってから二度寝してしまったんだし……あの環境で熟睡でき
てしまう神原がおかしいのだ。だから千石は、あの後、僕と同じように家に戻ってから寝てし
まって――僕と違って起きられずそれから、僕の下校時刻を見計らって、この正門までやって
きたというわけか。制服を着ているのは、平日だから、一応の補
導対策ということなのだろ
う。
「あー、でも、タイミングが悪かったな。ほら、言ってなかったっけ、もう今週末にはこの高
校、文化祭だからさ、今、それに向けての準備が佳境なんだよ。で、帰りがこんな時間になっ
ちまった。悪かったな、えーと、じゃあ、まさか二時間以上、待たせてしまった感じになるの
か?」
「う、ううん」
千石は首を振る。
あれ、通常なら授業は三時半上がりだから、四時くらいから待っていたとしたらそういう計
算になるはずなのだが……、あんまり遅いから、途中、どこかに外れていたってことなのか
な?
「二時くらいから待ってたから、四時間以上……」
「馬鹿じゃねえのかお前!」
全力で怒鳴りつけてしまった。
この正門前で四時間以上って……制服を着ているからこそ、逆に不審人物じゃねえか、そん
なの。高校の授業が二時とかに終わるわけがない。それにしても、学校が高い金を出