第73章

的には無害な怪異であってくれれば、助か

るのだけれど……だけど、僕の本能が、ここは逃げの一手だと告げている。いや、僕の本能

じゃない、僕の身体の中のどこかに巣食う、残滓として確実に存在している、伝説の吸血鬼の

本能が――

自転車を再度反転させようとして――咄嗟の判断で、その自転車から、僕は転がり落ちるよ

うに飛び降りる。

その判断は正しかったが――代償として僕は、大事な大事なマウンテンバイクを、永遠に失

うことになってしまった。雨合羽は、眼にも留まらぬ速度で、こちらに向けて跳ねて来て、左

手の拳で、僕がぎりぎり飛び退いた後のマウンテンバイクのハンドル部の真ん中あたりを殴り

つけ――マウンテンバイクは、激しい竜巻に巻き込まれた重みを持たない紙屑のようにひしゃ

げ、凹み、ぶっ飛んだ。電柱にぶつかって止まるまでに、その、ついさっきまでマウンテンバ

イクの形だった物体は完全に、原形すらも失ってしまった。

避けてなかったら――僕がああなっていた。

のか。

拳の巻き起こした風圧だけで、服が裂けている。

同様に、ボストンバッグのスリングが切れていて、どすんと、僕の肩から足元へと、落ち

た。

「……だ、段違いだ」

苦笑いすら――さすがに引く。

直撃しなくとも、ただ巻き込まれるだけで、この驚異的な気配……伝説の吸血鬼とまでは到

底いかないにしたって、それを連想するレベルの圧巻さ……物理的恐怖を伴う怪異。

母の日なんてとんでもない。

これは間違いなく、春休みだ。

自転車は失った。

それでも、走って逃げることは可能だろうか? 雨合羽の今の動きを見る限りにおいて……

いや、見えなかったのだけれど、つまりそれは見えないほどの速さだったということだから、

僕の足では逃げ切ることなんて、不可能だ。

それに。

たとえ逃げるためであっても、この怪異に、背中を向けたいとは思えない――この雨合羽に

背中を向けることが、目を逸らすことが、何より怖い。それは、剥奪することができそうもな

い、根源的な恐怖だった。

早くも前言撤回だ。

ざんし

こぶし の

かみくず

はくだつ

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慣れられるものか、こんな感覚。

どれほど場数を踏んでも関係ない。

思い出すだけでも、御免だった。

くるぅり、と、雨合羽がこちらを向いた。フードを深くかぶっているため、その内側の表情

は窺えない――が、しかし、表情がどうとかいうよりも、そこは、その部分は、深い洞にでも

なっているかのようだった。暗く、暗く――全くもって、何も窺えない。

世界から欠け落ちているようだった。

世界から抜け落ちているようだった。

そして、雨合羽は、僕に向かってきた。

左拳。

反射神経だけでかわせるような速度ではなかったが――しかし、さっきマウンテンバイクを

破壊したときと同じく、まるっきりの直線的な動きだったため、初動の段階で、覚悟を決めた

意志を持って反応できたため、またもすれすれで避けられた――避けた左拳は、あっさりと、

当然のように、僕の背後の、ブロック塀を貫通した。カタパルトでもぶちかましたかのような

有様だった。

その悪質な冗談みたいな破壊力に驚愕する一方で、雨合羽がブロック塀から左手を抜くまで

のタイムラグを利用して体勢を立て直せるかと思ったのだが、つまり、いうなら瓶の中に手を

突っ込んだ猿みたいなイメージで、雨合羽に数秒の隙が生じるかと思ったのだが、そんな計

算、甘い甘い、通じない。ブロック塀は、雨合羽が左拳で貫いたその部分から、堰堤が一穴を

中心に決壊するかのように、数メートルにわたってがらがらと、派手な音を立てて崩れてい

く。

懐かしい風景。

タイムラグなんて一瞬もなかった。

身体全体を捻るようにして、その左拳がそのまま直接、僕に向かってくる――今度は初動も

モーションも何もない、ただそのままの位置から、僕の身体を思い切り殴りつけるだけ。

カタパルト。

回避どころか防御すら、間に合わなかった。

どこを殴られたのかも、わからなかった。

視界が一瞬で回転し、二回転三回転四回転、思考回路が揺さぶられるように、激しい重力加

速度が前後左右にかかりまくり、世界全体が歪んで歪んで、そして、僕の身体はうつ伏せに、

アスファルトの地面に、叩きつけられる。

全身を磨り下ろされる気分を味わった。

うかが うろ

べい

つらぬ えんてい いっけつ

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磨り下ろされる大根の気分。

だが――痛い。

痛いということは、まだ、生きている。

全身痛いが、一番痛いのは腹部――殴られたのは腹筋のようだった。慌てて起き上がろうと

するが、足ががくがくと震え、うつ伏せの状態から表に返るのが、やっとだった。

雨合羽の姿が、やけに遠い。遠く感じる。錯覚かと思ったが――そうじゃなく、実際に遠

い。どうやら、たかが一撃で、えらい距離を吹っ飛ばされたようだった。まさしくカタパルト

だ。

腹の中身が――気持ち悪い。

この種類の痛みにも……覚えがある。

骨じゃない。

多分、いくつか、内臓が破裂している。

だが、中身はそのように破壊されても、確認してみれば、僕の五体の形は、無事というなら

無事のようだった。ああそうか、自転車と人間とじゃ、構造が違うから、同じように殴られた

ところで、同じように紙屑みたいな有様にはならないのか……ナイス関節、ビバ筋肉。

とはいえ……。

このダメージじゃ、やはりすぐには動けない。

そして、雨合羽は、僕に近付いてくる――今度は、目に、じっくりと映る、焼き付くような

ゆっくりとした、のびやかな速度で。あと一撃、たとえそうでなくとも二、三撃、僕を殴りつ

ければ、それで決着である――何も急ぐ必要も焦る必要もないということだ。

まあ、その通りだろう、妥当な判断だ。

けれど……なんなんだ?

この、まるで通り魔のような『怪異』……自転車を潰し、ブロック塀を砕くあのパワーから

して、どれほどにひとがたであったところで、あれが『人物』でないことは最早あからさまだ

が、しかし――その『怪異』が、どうして僕を襲う?

怪異にはそれに相応しい理由がある。

意味不明なばかりではない。

合理主義――理に合する。

それが、僕が忍野から学んだ、あの美しき女吸血鬼との付き合いから学んだ、最大の収穫

だった――なればこそ当然の帰結と

して、この怪異にも、必ず、理由があるはずなのに、それ

が僕には、全く思い当たらない――

原因は何なんだ。

あせ

ことわり

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今日あったことを思い出す。

今日会ったひとを思い出す。

八九寺真宵。

戦場ヶ原ひたぎ。

羽川翼――

二人の妹に、担任の教師、顔も朧なクラスメイト達、それに――順不同に頭の中に名前を挙

げていき、

最後に僕は、神原駿河の名を思い出す。

「…………!」

そのとき――雨合羽が方向転換した。

その、ひとがたの身体を、真逆に転換させた。

そうするや否や、瞬間、駆け出して――

あっという間に姿を消した。

呆気に取られるほどの、それは、唐突さだった。

「え……ええ?」

どうして、いきなり…

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