第88章

くれたんだ

ぞ」

「へえ……」

それは少し、意外だな。

今の戦場ヶ原のことじゃなく、中学時代の戦場ヶ原のことだとしても、意外ではある。

「非公式でいいから百メートル走をしようと誘われた。それを断らざるを得なかったのは、本

当に辛かったな。素敵な先輩だった。一目惚れこそはしなかったが、でも、話すようになって

三日目には、もう私は戦場ヶ原先輩のことを、好きになっていた。そばにいたいと、思うよう

になった。私は、戦場ヶ原先輩に、癒されたのだ」

癒し。

それは今の戦場ヶ原からは、太陽から冥王星くらいに程遠くも縁遠い言葉だったが――しか

し、実際、戦場ヶ原に会ってから、神原は、母親に託された木乃伊のことを、押入れに仕舞い

込んだ桐箱のことを、意識から外せるようになったらしい。

忘れられたらしい。

忘れたかったことを――忘れられた。

けれど。

「それでもやっぱり意識の底には残っていて、無意識のところにずっと残っていて、その後も

何度か、発作的に、その木乃伊を使ってしまいたいという衝動に駆られることはあった。その

木乃伊に頼ってしまいたいという衝動に駆られることはあった。たとえば、バスケットボール

の試合で、強豪チームと当たったときとか。たとえば、友達と酷い喧嘩をしてしまったときと

か。たとえば、戦場ヶ原先輩と同じ直江津高校に入学しようとしたときとか。……たとえば、

戦場ヶ原先輩に、拒絶されたときとか」

全部――我慢した。

全部、自力で、なんとかした。

あるいは、全部、諦めた。

母親が自分に、その桐箱を託した理由を、その頃には神原は理解していた――母親はきっ

めいおうせい

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と、困難に遭ったとき、自分の力だけで対処できる人間になれと、そういう思いを込めていた

のだろう。『猿の手』の物語におけるそれとは違い、運命を受容することを教えようとしたの

ではなく、運命を変えるならばそれは自分の手でするべきだと、そう教えたかったに違いな

い。母親はその母親から、母親の母親は、その母親から、母親の母親の母親は、更にその母親

から――脈々と、そう受け継がれてきたものなのだ。運命は自分の手で変えるものだと、願い

は自分の手で叶えるものだと、そう受け継がれてきたに、違いない。だから、足が速いのも、

頭がいいのも、彼女が、彼女自身で獲得したことだった。

生まれつき――だったわけじゃない。

血の滲むような、努力の末。

それを常に、意識しながら。

だから。

木乃伊に願えば、戦場ヶ原の抱えていた秘密を、問題を、解決することができたかもしれな

いけれど、神原は、それもしなかった。

黙って。

自分が、身を引いた。

戦場ヶ原のそばにいることさえ――諦めた。

手を握り締め、唇を噛み締め――諦めた。

戦場ヶ原のためなら死んでもいい。

はっきりとそう言ったのだった――神原駿河は。

戦場ヶ原のために、神原は、自分を殺したのだ。

自分の想いを、見殺しにした。

忘れたくないことを。

忘れられないことを――忘れた。

「でも、その一年後……阿良々木先輩のことを、私は、知ってしまった。阿良々木先輩とのこ

とを、私は、知ってしまった。戦場ヶ原先輩のそばにいる、阿良々木先輩を、見てしまった」

我慢できなかった。

なんともできなかった。

諦められなかった。

いつ押入れを開けたのかも、いつ桐箱を取り出したのかも、いつその封を解いたのかも、い

つ木乃伊に願ったのかも、神原にはもうわからない、左手首までしかなかったはずの木乃伊が

どうして肘の部分まで伸びてしまっているのかということにすら、全く考えが及ばず――気が

付けば。

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神原の左手が――怪異と化していた。

腕が、けだものの手と化していた。

神原は――

七年ぶりに、ぞっとした、そうだ。

「……お前、僕のストーキングを始めたのは、それからか……そういや神原、会うたびに、今

日は何か変わったことはなかったかとかどうとか、僕に訊いていたな」

それは――そういう意味だったのか。

雑談などではなく。

決して戦場ヶ原とのことを探ろうとしていたのではなく……大好きなバスケットボールもで

きなくなってしまったそんな腕で、人前に出たくもなかっただろうに、包帯でそれを隠してま

で、僕の身の安全を――気に掛けていてくれていたのか。

しかし、ストーキングを始めて、四日目。

四日目の夜。

ことは――起こった。

神原は夢を見たそうだ――

雨合羽を着た化物が、僕を襲う夢を。

だからこそ、今日、僕が二年二組の教室を訪れた段階で、神原はあんな風に、とても落ちつ

いた態度だったのだ。

全てを悟っていたそうだ。

何が起こったのかを。

それは僕の読みとは、だいぶん違う裏話だった。

怪異が絡んでいること自体はわかっていたが、現象自体には、神原の意思は噛んでいないと

いうこと……そう、その木乃伊の所為だということ。

いわく、猿の手は持ち主の願いを叶えてくれる。

いわく、ただし、持ち主の意に添わぬ形で――

戦場ヶ原のそばにいるためには、そう、現在戦場ヶ原が付き合っている恋人である、阿良々

木暦を排除するのが、もっとも手っ取り早いと――木乃伊は思った。

のだろう。

それを恐れてのストーキング――

しかし、神原の予感は的中した。

実際問題、僕が僕でなければ……阿良々木暦が阿良々木暦でなければ、元不死身の、吸血鬼

を経験した人間でなければ、あの段階で、確実に殺されていただろう。一撃目も二撃目も避け

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ることはできなかっただろうし、たとえできていても、三撃目で、あっさりと致命傷だった。

それほどの、馬鹿げた破壊力、破壊能力だった。推測するに、小学生の頃、被害がそれほどで

もなかったのは、神原の身体が小学四年生のそれで、また、運動神経が鈍い段階での、神原

だったからに違いない――今の神原は、桁違いだ。皮肉にも、一つ目の願いを回避するために

鍛えた

身体が――二つ目の願いに関して、より酷い被害を巻き起こす結果となっている。攻撃

に使っていたのは左手だけだったが、目にも留まらぬあの速度は――神原駿河の能力だ。彼女

の能力の、底上げされたバージョンアップだろう。

能力――破壊能力。

暴力。

そして。

その問題は、全くもって終わっていない――僕がこうして生き残ってしまっている以上、全

くもって終わっていない。日が沈んで夜になれば、何度でも雨合羽の化物は僕を襲うだろうし

――神原は、雨合羽の化物に襲われる僕の夢を見るだろう。

僕が死ぬまで、繰り返し、繰り返し。

夢が叶うまで。

願いが叶えられるまで。

神原の、二つ目の願いが叶えられるまで。

戦場ヶ原ひたぎのそばにいたい。

神原の願いは、ただそれだけのことなのに――

「『世の中に 人の来るこそ うるさけれ とは言ふものの お前ではなし』――

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