第36章

とは言え。

全身を強く打った感覚に、僕は絶息する。

いつかの話ではないが、本当に神原は、左腕一本で僕を押し倒したのだった。場所は、ベッ

ドの上では――なかったけれど。

「な、何を――神原!」

僕はわめくが、神原はそのまま無言で、僕の上に折り重なるように、柔道でいう縦四方固め

のように、左腕だけでなく、全身をフルに使って、僕の動きを拘束する。右腕と左脚がこの状

況では、抵抗らしい抵抗など、できるわけが――否。

たとえ僕のコンディションが万全でも。

たとえ神原の腕が猿でなくとも。

神原が本気で僕を押さえつけようとしたら、相手になるわけがないのだ。全国区の体育会系

と、帰宅部の落ちこぼれである。年齢差など、体格差など、この場合、ちっとも問題にならな

い。どんなに暴れようとしたところで、まず身動きからできない。身体をぴったりと密着させ

られ、そんなに重くないはずの神原の肉体なのに、ずっしりと押し潰されそうにすら感じる。

「神原……お前――」

「大人しくしろ! 興奮するな!」

「興奮するなって――」

「興奮すれば毒が回るぞ! 阿良々木先輩」

神原は、間近な距離の中――それもほとんど接触しているかのような、互いの顔と顔の距離

の中、僕に対し、割れんばかりに声を張り上げる。

「蛇は気性の荒い生き物だが臆病なんだ――人間から接近して攻撃を仕掛けない限り、向こう

? ? ? ? ? ? ? ?

さじん

ぜっそく

こうそく

まぢか

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は何もして来ない! 刺激するからいけないのだ! 大人しくやり過ごせば、蛇はどこかに

行ってしまう!」

「…………っ」

蛇の――性質。

それは、怪異になったところで――変わらない。

巻き憑きしかり、ピット器官しかり。

だから――

それは、神原の言う通りなのだった。

僕だって――それくらいは知っている。

僕がやり過ごせば――蛇切縄は、この場を去る。

既に、千石からは引き剥がしている。

蛇は――帰るのだ。

「……だ、だが神原! それじゃあ――」

それは、帰るだけだ。

還るんじゃない。

返すん――だ。

呪い返し――

人を呪わば穴二つ。

人を呪わば――穴二つ。

蛇の牙で穿たれたがごとく――穴二つ。

「阿良々木先輩! 頼むから――」

神原は、悲痛な声で言った。

僕に、訴えるように。

「――助けるべき相手を、間違えないでくれ」

ざざざざざ。

ざざざざざ。

ざざざざざ、と。

音がする。

蛇切縄が、地面を這う音――この角度からでは、舞い上がる土煙も、掻き分けられる草も見

えない。けれど――その音が、確かな速度を伴って、遠ざかっているのは、わかる。蛇切縄は

――這い去ろうとしていた。神原の左腕によって、一気に五メートルも移動させられた僕を、

見失ったのかもしれない。それとも、そもそも、蛇切縄は僕のことなど、最初から相手にして

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?

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いなかったのかもしれない。

蛇は――帰る。

遣わした者の場所へと。

呪いを――持ち帰るために。

「………………」

がくり、と全身から力が虚脱していくのを、感じた。もう、間に合わないだろう。追いかけ

ようとしても、見えない蛇を追うなんて、僕には無理だ。この境内から出られてしまえば、音

も気配も、なくなってしまうのだから。そもそも、それ以前に、この神原の拘束を、自力で解

くことからして、僕にはできない。

できたとしても――できそうもない。

「阿良々木先輩……」

ぐったりと力が抜けたのを感じたのだろう、神原が、心配そうに――僕に声を掛ける。

「ごめん」

僕は神原に、謝った。

それしか、思いつかなかった。

「辛い役目をやらせて、ごめん」

「謝らないで欲しい……立つ瀬がない」

「うん……ごめん」

「阿良々木先輩」

「ごめん……神原……、本当にごめん……」

ごめん――としか言えない。

なんだか、神原には、肝心なところで、謝ってばかりいる気がする。本当に申し訳ない。負

担を強いて……こんな情けない先輩で、本当に――悪いと思っている。

実際、神原の判断は正しかった。それは認めるしかない。あのまま続けていても、僕が蛇切

縄を打倒できる可能性なんて、ほとんどなかったのだから。怪異もどきの僕が、怪異そのもの

に、対応できるわけもない。蛇の咬撃を回避するために激しく動いて、毒が早めに身体に回っ

て、ぶっ倒れるのがいいところだっただろう。

単に――諦め切れなかっただけだ。

だだをこねていたようなものだ。

だからこそ、痛感する。

右腕の痛みも、左脚の痛みも。

その痛感に較べれば、まるで皆無だ。

きょだつ

こうげき

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僕は、薄い。

僕は、弱い。

僕は――本当に無力だ。

「暦お兄ちゃん……」

蛇が去り――

意識を取り戻したらしい千石が、僕と神原のところへ、覚束ない足取りで、近付いてきた。

怪異なき今、あの結界はもう意味をなさない――千石の、スクール水着から覗く肌に、食い込

んでいた鱗の痕は、全身隈なく、消えている。

半分じゃない。

全部、消えている。

色白の、きめ細かい、綺麗な肌だ。

もう彼女は、苦しくない。

もう彼女は、痛くない。

もう彼女は、泣かなくていい――

「暦お兄ちゃん。助けてくれて、ありがとう」

やめてくれ。

千石。

お願いだから、ありがとうなんて、そんな聞くに堪えない言葉……言わないでくれ。僕に、

お前からそんなことを言ってもらう資格はない。僕は、あ

ろうことか――お前を呪った人間ま

でも、助けようとしていたのだから。

007

後日談というか、今回のオチ。

翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされ、僕はそのまま、学校へ行く準

備をする。六月十三日、火曜日、平日。右腕と左脚は、どうやら、日常生活が可能なくらいに

は、回復しているようだった。あれから、情けなくも神原と千石に、両側から抱えられるよう

な格好で、僕は例の学習塾跡に向かって、忍にいくらか血を吸ってもらい、回復力を底上げし

たのだった。いくら放任主義と言っても、片手片脚がひしゃげた状態で家に帰ることはできな

かった。忍は相変わらず、そんな僕に対して、何も言わなかった。呆れているのかもしれない

おぼつか

かれん つきひ

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し、何も思っていないのかもしれない。しかしいずれにせよ、予定外に僕の血を多く飲めるこ

とは、忍にとっては損なことではないはずだから、機嫌はむしろよかったくらいだろう。一応

は筋ということで、ことのなりゆきを、簡単に忍野に報告しておいたが、忍野もまた、多くは

語ら

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