には、何の問題もないわけだし
な。
僕は自転車に跨り直す。
「じゃ、八九寺。またな」
「はい。またお会いできると確信しております」
小学五年生の友達に見送られながら、僕は学校へと向かった。結構ぎりぎりな時間だったの
で、ペダルを漕ぐ足には力が入る。
八九寺真宵。
蝸牛に迷った少女。
元気そうで何よりだったが――しかし、何よりと言うには、彼女の立ち位置は、非常に危う
いものなのだった。ある意味、僕が知っている誰よりも、怪異にかかわった者としては、最悪
なポジションにいるのかもしれない。
だからと言って――どうしてやることもできない。
自分が何かできると思っては駄目だ。
人は――一人で勝手に助かるだけ。
そこを勘違いしてはいけない。
いけないんだけれど。
「………………」
怪異にかかわり――怪異を知ってから、三ヵ月。
あれから三年――ではないが。
ないが、僕は、随分変わってしまった。
これも――
一人で、勝手に変わっただけなのだろうか?
予鈴が鳴る前に、校門をくぐることに成功した。考えてみれば、僕の鞄の中には今、千石か
ら預かった、神原に返すための、ブルマーとスクール水着が入っている。今日は早めに学校に
着いて、二年の教室を訪ねる予定だったのだが……ううむ、もう間に合わない。まあいいか。
どうせ人目をはばかる届けものだ、呼び出したりする手間を考えれば、昼休みか放課後辺りの
方が、都合がいいだろう。そんなことを思いながら、僕は自転車置き場の定められた箇所に、
またが
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自転車を停める。
校舎内に這入って、階段を昇る。
と、携帯電話が震えた。
おっと、教室に入る前に電源切らないとな……、うっかりしてた。振動がすぐに終わったと
いうことは、電話じゃなくてメールか? しかしこんな早朝に? 妹達かな……、戦場ヶ原と
神原は、そんな積極的にメール機能を使わない奴らだから……、と、僕は、携帯電話をポケッ
トから取り出し、その表示を確認する。差出人を見たときは眼を疑ったが、しかし、その本文
を読めば、そんな疑いは払拭された。日本広し日本史長しと言えど、携帯電話におけるメール
のやり取りで、『前略』から始まり『草々不一』で結ぶ文章を送ってくる人間は、確実に一人
しかいない。
そして、僕は、その『前略』と『草々不一』の間に挟まっている文章を読んで――繰り返し
て二回読んで、教室へと向かう、階段を昇る足を止め、迷いなく踵を返した。
生徒の流れを逆走。
そのまま、自転車置き場へと取って返す。
「あら」
そこで、戦場ヶ原ひたぎと出会った。予鈴寸前――ではあるが、しかし彼女の場合は僕のよ
うに遅刻寸前というわけではない、戦場ヶ原は、いつでも、計ったように計算ずくで、一切の
無駄なく、この時間に登校してくるのだった。
昨日のことがあったから、突然顔を合わせて、僕は気恥ずかしくてちょっと言葉に詰まった
が、そこはさすがは戦場ヶ原ひたぎ、まるっきり平坦な態度、全くの無表情で、
「何よ」
と言った。
「阿良々木くん、どこかに行くの?」
「ちょっとそこまで」
「何をしに行くの?」
「人道支援」
「あらそう」
取り澄ましたものだった。
さすがは戦場ヶ原ひたぎ。
もう、僕のことはわかっているようだ。
これも以心伝心――なら、いいんだけれど。
「いいわ。行ってらっしゃい、阿良々木くん。本来ならばあり得ないことだけれど、特別に情
ふっしょく
きびす
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けをかけて、私が代返しておいてあげる」
「四十人ぽっちの高校の授業で代返なんて、何の意味もないと思うが……て言うかお前が怒ら
れて終わりなような気がするぞ」
「ちゃんと阿良々木くんの声色を使うから大丈夫よ、任せておいて。私の声を担当している声
優さんは優秀なのよ」
「声優!? この世界ってアニメだったの!?」
「『神原を可哀想な目に遭わせる奴はこの僕が許さねえよ! それがたとえお前でもだ!』。
どう、似てた?」
「似てねえよ! ちょっと期待しちゃったけど思いのほか似てなかったよ! そしてそんな恥
ずかしい台詞をわざわざピックアップしてリフレインするな! チョイスに悪意を感じる
ぞ!」
「神原に教えてやったら泣いて喜んでいたわ」
「そんなくだらねえことでいちいち後輩を泣かせるんじゃねえ! 今や神原はお前だけの後輩
じゃないんだぞ!?」
「『ひたぎさん……なんて美しいんだ。正に僕の理想の人だよ。愛してる』。どう、似て
た?」
「似てねえし、そもそもまだ言ってねえだろうがよ、そんな台詞!」
「まだということは、これから予定があるのかしら」
「……、…………っ、ある!」
なんて。
そんな馬鹿なやり取りをしている時間は圧倒的になかったのだが、それでも僕は、焦るばか
りの気持ちを十全に落ち着かせてくれた礼を、戦場ヶ原に言って、そこから更に駆け足で、自
転車置き場へと向かった。
005
浪白公園――それが『ろうはく』と読むのか『なみしろ』と読むのか、それともそれ以外の
読み方をするのか、僕は未だ知らない。まだ知らないということは、これからも知ることはな
いだろうが――記念すべきと言うなら、この公園もまた、記念すべき場所と言うべきかもしれ
ない。
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あの母の日。
まだ自転車としての形状を保っていた、僕の愛車であるマウンテンバイクでふらふらと辿り
着いた、ブランコしか遊具のないこの公園で、僕は散歩中の戦場ヶ原と偶然出会いそしてま
た、迷子だった八九寺真宵とも、遭遇したのだから。
そして僕は憶えている。
あの日――僕はその二人だけではなく、同じく羽川翼とも、たまたま、出会っていたこと
を、憶えている。そのとき、羽川は確か、こんなことを言っていた――この辺りは私の地元
だ、と。
だから、メールによって呼び出された場所がこの浪白公園であることは、偶然でもなければ
暗示でもないだろう。単に、聡い羽川が、自分の住んでいる家の近くで、僕にわかる場所とい
うことで、唯一はっきりしている浪白公園を指定したというだけのことだ。その辺の
采配は、
なるほど、感心してしまうほどに巧妙だった。
そう――
メールの差出人は、羽川翼だった。
予鈴どころか本鈴もとっくに鳴ってしまっただろう。そうは言ってもよく憶えていない、一
度、適当に道なりで行ったことがあるだけの土地勘のない場所のこと、浪白公園に到着するま
でには結構な時間を要したが、なんとか一時間目が終わる前には、僕は、広場のベンチに、背
中を丸めて小さくなって腰掛けている、羽川の前に、アライバルすることができた。
羽川は随分と印象の違う格好をしていた。
イメチェンとしても過剰なくらい。
上半身を覆い隠すようなサイズの、薄手の長袖の上着は、えらく裾が長い。そこから伸びる
ズボンも、かなりだぼだぼだ。色はピンク。外出着にしては派手な彩色だった――いつもは学
校指定の無地の白い靴下にスクールシューズの足元は、裸足にサンダルという、お気楽なもの
だった。
眼鏡こそそのままだが、三つ編