第91章

「寄り道してたもんでな」

「元気?」

「超元気」

「おはよう」

「おはよう」

そんなところだ。

羽川の羽川としての意識から、どのくらいまでの記憶が失われ、逆にどのくらいまでの記憶

が残っているのかを、僕はまだ知らない。いつかは訊かなくてはならないことだが、それは今

じんもん

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ではないだろう。羽川にも、心の整理整頓をする時間が、必要なはずである。

戦場ヶ原は、相変わらず、計ったように計算ずくで、一切の無駄なく、始業ぎりぎりに登校

してきた。相変わらずの平坦な無表情だった。

「お帰りなさい」

「ただいま」

「今度のデートは」

戦場ヶ原は唐突にそう言った。

相変わらずの平坦な無表情のままで。

「阿良々木くんがプランニングしなさい」

「…………」

「変なところに連れて行ったら皮を剥ぐわよ」

「……了解」

望むところだ。

戦場ヶ原に、今度は僕の宝物を見せてやろう。

いつか、蟹も――食べに行かなくちゃ。

そして放課後は、その文化祭の準備――高校生活最後の文化祭。本番はもう目前、準備に費

やせるのは今日が最後。当然、戦場ヶ原もこの日ばかりはサボることなく、作業に邁進した。

昨日はみんな、とんでもなく深い時間まで学校に残っていたそうだが、さすがに委員長の羽川

がいると作業効率がまるで違う、規定の下校時刻寸前には、クラスメイトは全員解放された。

それから僕は、戦場ヶ原と羽川、それから、待ってもらっていた神原を連れて、再度学習塾

跡へと向かった。自転車が僕一人だったので、僕は自転車を押しながら、みんなで徒歩という

ことになった。

学習塾跡に忍野はいなかった。

またしても。

おかしい、と言ったのは戦場ヶ原だった。あの見透かしたような男が、阿良々木くんが訪問

するときに二度も続けて留守だなんて――と。そう言えば、おかしいと言うなら、誘っておい

てなんだが、戦場ヶ原がこうして、忍野に会いに行くのに一緒についてきたことも、おかし

かった。戦場ヶ原は誰よりも忍野のことが嫌いなはずなのに。あるいは既に、その予感が、戦

場ヶ原にはあったのかもしれない。僕から話を聞いた段階で、戦場ヶ原には全てわかっていた

のかもしれない。

四人で手分けして学習塾中を隈なく探しても、忍野はいなかった。しかし、よく見れば、よ

くよく見れば、ビルディングの中からは幾つか物が減っているように思われた――減っていた

まいしん

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のは忍野の私物ばかりだ。

もう明らかだった。

忍野メメはいなくなった。

手紙一つ残さず――この町を去ったのだった。

今ならわかる――昨日、羽川を自転車に乗せてここを訪れた際、忍野が屋外に出ていたの

は、あれは忍を探していたからじゃない。あのとき、忍野は撤収作業の最中だったのだ。この

場所に張ってあったという、結界を解いていたのだろう。

あのとき。

僕は、待たれていなかった。

山の上のあの廃神社――あの件を片付けた段階で、きっと忍野のこの町に関する興味は、お

およそ途絶えていたのだ。大きな目的の一つ――と言っていたが、それはまた、忍野にとっ

て、最後の目的の一つ――でもあったのだ。

蒐集も調査も、いつかは終わる――

いつかは僕も、この町を出て行く――

それが、今だったというだけだ。

ある日突然、挨拶もなしで姿を消したりはしないさ――僕も大人だからね――そこら辺は弁

えてる――

どうして気付かなかった。

あの台詞そのものが、どうしようもないくらいに、もう、別れの挨拶じゃないか。別れの言

葉を決して口にしない、人との別れが何より苦手な、あの不器用な男の、精一杯の、親愛の証

――

全く。

本当に僕は、鈍感だ。

わかってもよさそうなものなのに。

時間がない、と言っていた。

ならばあれは、忍のことだったのだ。

あいつは、忍が出て行くのも、わざと見逃していたのだ――わかっていて、見逃したのだ。

さすがに、家出を促したりまではしなかっただろうが、それをいい潮と見たのだろう。障り猫

はタイミングよく――いや、悪くか――噛んできたので、後づけでストーリーに組み込ませた

だけだ。要するに、忍の失踪は忍野にしてみれば、僕に対する試練――いや、餞別のようなも

のだったのだ。

あいつは、僕が忍を探しに飛び出したときに、僕に対して何らかの何かを確信して――障り

とだ

うなが

せんべつ

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猫を見逃がした後、荷物をまとめて、ここを後にしたのだろう。忍のことも羽川のことも、僕

が一人で何とかできると――そう確信して。

あのアロハ野郎。

粋な真似をしやがる。

格好いいなんて思わないぞ。

もう既に一日が経過している、忍野は今頃は別の町に流れ着いて、別の町で蒐集と調査に勤

しんでいるのだろう――案外通りすがりに、怪異に襲われている誰かを、助けているかもしれ

ない。

そう。

きっと、助けているだろう。

「全く、あれだよな」

僕は言った。

「そうね、あれだわ」

戦場ヶ原も言った。

「あれだよね、実際」

羽川も続ける。

「うん、あの人は、あれに違いない」

神原も同意した。

そして全員が、声を揃えて異口同音。

「お人よし」

忍野メメ――

軽薄で、皮肉屋で、悪趣味で、意地悪で、不遜で、お調子者で、性悪で、不真面目で、小芝

居好きで、気まぐれで、わがままで、嘘つきで、不正直で――どこまでも優しくて、いい人

だった。

かくして、僕達は、それぞれの家に帰る。まず最初に神原が離脱し、それから羽川と別れ、

最後に、僕が戦場ヶ原を家まで送った。戦場ヶ原は初めて、つまりようやく、僕に手料理を振

舞ってくれた。その味、その腕については、うん、まあ、伏せておくのが花だった。

これからも僕は怪異に遭うだろう。

なかったことにはできないし、忘れることもない。

でも――大丈夫だ。

僕は知っている。

この世に闇があり、そこに住む者がいることを。

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たとえば僕の影の中にも、住んでいる。

金髪の子供が、とても居心地良さそうに。

家に帰った頃にはもういい時間だったので、僕はご飯を食べて風呂に入り、さっさと眠るこ

とにした。きっと明日もいつものように、二人の妹が僕を起こしてくれるだろう。

明日はいよいよ文化祭だった。

僕達のクラスの出し物は、お化け屋敷。

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あ と が き

趣味と仕事の区別をどこでつけるかという問題はこれまでどれほどの人の頭を悩ましてきた

ことか見当もつきませんが、しかしこの問題、人生における趣味と仕事の絶対値が等価である

という前提から始まっているからこそ難間化しているのではないかと思います。趣味。そして

仕事。確かにどちらも人生において大きな問題です。けれどよくよく考えてみれば、趣味と仕

事をまるで二択問題のように扱うのは、どうにもこうにも不自然な気がします。というより、

なんでしょう、この問題、趣味と仕事が一致してはいけないという根本的な倫理

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