これでこの騒ぎは解決した。
しかし――勿論、問題が消えてなくなったわけでは、やはりない。結局のところ、障り猫を
祓ったというだけで、その他の部分は、何一つ動いていないのだから――障り猫を消したとい
うだけで、ストレスそのものが消えてなくなったわけじゃない。しかも、今回のストレスはほ
んの数ヵ月で形成されたものだった――つまり、同じ理由で再現されてしまう可能性も、決し
て低くない。それでなくとも、羽川には、ずっと昔から抱えている家族の問題があるというの
に――
いや。
違う。
家族のことはともかく。
今回のことは――僕がなんとかできる問題だ。
明日からの僕の振る舞い次第で、羽川を、ある程度は楽にしてあげることができる。勿論、
やっぱり気持ちを変えることはできないけれど――それでも、羽川に恩返しをしたいという気
持ちも、やっぱり、僕の気持ちなのだから。
羽川を助けたいと、僕は思う。
翼という名を負わされた彼女を、助けてはならないという法はないだろう。
助けるのは――僕の勝手だ。
誰が何と言おうと、勝手にさせてもらう。
「はあ……」
ため息が漏れた。
しかし、それにしても、今回は疲れた……限界近くまで、エナジードレイン、されちまった
からな……吸血鬼もどきのこの身体でも、体力が回復するまで、相当の時間を要しそうだ。こ
つむ
たすく
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れでは僕も、明日の朝までここから動けそうにないな……。やれやれ、手伝ってくれたみんな
に、お礼を言わなくちゃならないっていうのに……。
まあいいか。
こうして羽川のパジャマ姿も、拝めたことだし。
北風と太陽でいうなら、どっちかというと北風の方だったけれど……街灯の下、スポットラ
イトでも浴びているかのように照らされる、黒髪の、寝息を立てている羽川のパジャマ姿はこ
れ以上なくいい眺めだった。半減を取り消したけれど、そこから更に喜びも倍増って感じか
な。本日の労力の代価としては、至福と言ってもいい。まあ、こうして道端で、羽川を見なが
ら、羽川と共に夜を明かすのも悪くはない……。
星空は。
こんなにも、綺麗なのだから。
「う、ううん」
と。
羽川が声を立てた。
寝言らしい。
「阿良々木くん……」
あるいは――それは寝言というよりは、意識が朦朧として、言葉がただ漏れているだけなの
かもしれない。障り猫の存在だけが忍によって吸い取られて、だから、ブラック羽川と羽川の
意識がまだ整理整頓しきれず、両者が混在した状態に、今の羽川はあるのかもしれない。
だから、寝言ではなく――本音だ。
羽川翼の飾り気ない本音が、漏れている。
「私との友情よりも私に恩返しをすることの方がずっと大事だなんて――そんな寂しいこと、
言わないでよ」
「…………」
目を閉じたままで――羽川は呟く。
「阿良々木くん……きちんとしなさい」
そして再び――深い眠りに落ちる彼女。
いやはや、寝てるときまで、この女は。
とことん――真面目が堂に入っている。
人のことを構っている場合じゃあるまいに。
せいとん
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しかし僕はそれでも、即座に、素直に、条件反射のように、羽川のその言葉に答えた。三年
生になってから、伊達に二ヵ月、羽川に躾けられてきたわけじゃない。こういうときにどう答
えるべきかは、これでもわかっているのだ。
「はい」
008
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされた。あれ、と僕は首を捻る――
そこで記憶が繋がった。そうだ、結局僕は、あの後、あの道端で夜を明かすことはなかったの
だ。危うくそうなりかけたのだが(羽川のパジャマ姿を思えば、『危うく』という言葉はもっ
と別の、幸運を祝うような言葉と置き換えるべきかもしれないが)、しばらく時間が経過した
ところで、神原駿河がものすごいスピードで、宅急動だか縮地法だかBダッシュだかで駆けて
きたのだった。これが前に聞いた羽川先輩かと神原がときめきかけていたのを死ぬ気で止めて
から、自宅まで彼女を送っていくようにお願いする。家庭の事情が複雑なだけに、男の僕が送
るよりも年下の後輩である神原が送った方が言い訳の弁が立ちやすいだろう――文化祭の準備
を理由にすれば、なんとかなるはずだ。いや……たとえそうでなくとも、そのときの僕に、羽
川を送っていくだけの体力は、まだ戻っていなかった。だから神原に、電話番号を教えるか
ら、僕には二人の妹を呼んでくれと頼んだ。続けて千石を探してくれるようにも言ったが、
ちょっと前に会って、もう遅いからと、既に家に帰らしたとのことだった。この後輩もこの後
輩で随分と如才ない。口説いていないだろうなと訊くと、神原は照れくさそうに笑った――い
やお前、そこでその笑みは違うから。
そして、月曜日に神原と千石にそうされたように、妹に両脇から抱えられながら自宅に帰
り、僕は眠ったのだった――兄ちゃん最近非行が過ぎるよと、上の妹から叱責を受けた。返す
言葉もなかった。しかし、その台詞、お前らにだけは言われたくはないと思うのだが……。
そんなわけで翌朝。
僕は学校に行く前に学習塾跡へと向かった――言うまでもなく、あれから僕の影に潜みっぱ
なしの忍を、忍野の下へと送り届けるためだ。結局、忍がどうして失踪したのかはわからずじ
まいだった。理由を訊いても答えないし、勿論、自ら語ろうともしない。いくらでも推測は立
ちそうだったし、その全てが間違っているような気もした。案外、最近忍に甘え気味だった僕
だて しつ
ひね
しっせき
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を、彼女は困らせたかっただけなのかもしれない――そんな推測もまた、間違っているのかも
しれないが。
学習塾跡に忍野はいなかった。
留守らしい。
そう言えば忍野の意図も謎だった――どうして障り猫を、逃がしたのか。本当にうっかり取
り逃したのかもしれない、しかし順当に、逃げるのを見逃したのかもしれない。どちらにして
も――あそこまでの展開が予想できていたとは、今回ばかりは、思えない。僕が探しに出れ
ば、それがネズミ捕りのように作用し、忍が僕の影に潜むだろうというくらいの予想はできる
かもしれ
ないが、そこに障り猫を噛ませる理由があるとは思えない。猫並みの知能のブラック
羽川が、真相に気付く可能性が果たして何パーセントあったというのだ。
ただし。
恐らく、忍野には、それだけはわかっていたのだろう――羽川のストレスの大本だけは、最
初の尋問の際に、既に。
それは別段、忍野だからこそわかったというわけではなく――僕だけが、鈍感であるがゆえ
にわからなかっただけだろうけれど。
察しが悪い。
この学習塾跡の窓枠よりも、もっと。
まあ、留守は留守。
仕方ないは仕方ない。
ということで、僕は忍を影に潜ませたままで、学校へと向かった。忍を学校に連れて行くこ
とには抵抗があったが、失踪という前科を持ってしまったこの吸血鬼を一人放置しておくこと
には、もっと抵抗があった。
教室で羽川と会った。
「あ。遅かったね」