―私の気持ちで、私の思いで――私の記憶ですから、私
が、背負います。失くしちゃ、いけないものでした」
そして、最後に――
「お願いです。お願いします。どうか、私に、私の重みを、返してください」
最後に、祈りのような、懇願の言葉。
「どうかお母さんを――私に、返してください」
だん。
忍野の足が――床を踏み鳴らした音だった。
無論、踏み潰した――のではないだろう。
そうじゃなく、いなくなったのだ。
ただ、そうであるように――当たり前のようにそこにいて、当たり前のようにそこにいない
形へと、戻ったのだろう。
還ったのだ。
「――ああ」
身じろぎもせず、何も言わない忍野メメと。
全てが終わったことを理解しても、姿勢を崩すことなく、そのままわんわんと声を上げて泣
きじゃくり始めてしまった戦場ヶ原ひたぎを、阿良々木暦は、離れた位置から眺めるように見
ていて。
ああ、ひょっとしたら戦場ヶ原は、本当は本当の本当に、ツンデレなのかもしれないなと、
? ?
どげざ
こんがん
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そんなことを、ただぼんやり、考えていた。
007
時系列。
時系列の捉え方を、僕は間違っていたらしい。てっきり、戦場ヶ原が蟹に行き遭って、重み
を失い、その後で戦場ヶ原の母親が、それを心に病んで、悪徳宗教に嵌っていった――のだと
思っていたけれど、そうではなく、戦場ヶ原の母親が悪徳宗教に嵌ったのは、戦場ヶ原が蟹に
行き遭い重みを失う、随分と前だと、いうことだった。
考えれば分かりそうなものだ。
カッターナイフやらホッチキスなどの文房具と違って、スパイクなんてものは偶然、手を伸
ばしたらそれで届くような、身近にあるようなものではない。スパイクという単語が出てきた
以上、それは、戦場ヶ原が陸上部だった頃――中学生だった頃の話であると、あの時点で僕
は、察しているべきだった。間違っても、体育の時間にも参加できない、帰宅部の高校時代で
は、ありえないのだ。
正確には、戦場ヶ原の母親が悪徳宗教に嵌ったのは――それを信奉するようになったのは、
戦場ヶ原が小学五年生のときだったらしい。羽川ですらも知らない、小学生の頃の、話だった
のだ。
聞いてみれば。
その頃戦場ヶ原は――病弱な女の子だったらしい。
立ち位置ではなく、本当にそうだったのだ。
そして、あるとき、名前を言えば誰でも知っているような、酷い大病を患った。九割方助か
らないというような、それこそ医者が匙を投げるような、病状だったそうだ。
そのとき――
戦場ヶ原の母親は、心の拠り所を求めた。
つけ込まれたというべきか。
恐らくはそれとは何の関係もなく――「本当に関係ないかどうかは誰にもわからないよ」な
んて知った風なことを、忍野は言ったが――戦場ヶ原は、大手術の結果、九死に一生を得たそ
うだ。これもまた、戦場ヶ原の家で、戦場ヶ原の裸を、もっと細部までじっくりと観察してい
れば、背中にうっすらと残っているという手術の痕跡を、僕はあるいは見つけられていたのか
とら
わずら
さじ
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もしれないが、しかしそこまでを僕に要求するのは酷というものだろう。
こちらに身体の正面を向けて、上半身から服を着る彼女に対し――見せびらかしたいだけな
のかとは、やっぱり、酷い物言いだったけれど。
感想くらい――か。
ともあれ、戦場ヶ原が一命を取り留めたことで、戦場ヶ原の母親は――ますます、その宗教
の教義に、のめりこんでしまった。
信仰のお陰で――娘が助かったのだと。
完全に、型に嵌った。
典型的症例という奴だ。
それでも、家庭自体は――かろうじて保たれていた。それがどのような宗派のどのような宗
教だったのか、僕には知りようもないけれど、少なくとも基本方針としては、信者を生かさず
殺さず――だったのだろう。父親の稼ぎが大きかったことも、元々戦場ヶ原の家が素封家で
あったことも、その助けになっていたけれど――しかし、年を追うにつれ、母親の信仰具合、
のめりこみ具合は、酷くなっていったらしい。
家庭は保たれているだけだった。
戦場ヶ原は、母親とは不仲になったそうだ。
小学校を卒業するあたりまではともかく――中学生になってからは、ほとんど口をきかな
かったらしい。だから、羽川から聞いた、中学時代の戦場ヶ原ひたぎの姿が――それを知って
からもう一度見ると、どれほど歪んでいたかが、理解できる。
本当に――まるで釈明だ。
超人。
まるで超人だった、中学時代の戦場ヶ原。
それは――ひょっとしたら、母親に、その姿を見せるためだったのかもしれない。そんな宗
教なんかに頼らなくても、自分はちゃんとできるんだから――と。
不仲なりに。
根本が活発な性格では、なかったのだろう。
小学生のとき病弱だったなら、尚更だ。
無理をしていたんだと思う。
でも、それは、多分、逆効果だった。
悪循環。
戦場ヶ原が、ちゃんとすればちゃんとするほど、模範であれば模範であるほど――戦場ヶ原
の母親は、それを、教義のお陰だと、そう思ったに違いないのだから。
こく
そほうか
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そんな逆効果の悪循環を繰り返し――
中学三年次。
卒業を間近にして、ことは、起きた。
娘のために入信したはずなのに、それはどこかで主客転倒を起こし、悪徳宗教の幹部に娘を
差し出すところにまで、戦場ヶ原の母親は至った。否、それすらもまだ、娘のためであったの
かもしれないと思うと、やりきれない。
戦場ヶ原は抵抗した。
スパイクで幹部の額を、流血するほど傷つけた。
その結果――
家庭は崩壊してしまった。
破局した。
全てを根こそぎ、奪われて。
財産も、家も土地も失い――借金まで背負い。
生かさず殺さず――殺された。
離婚が成立したのは去年だと言っていたし、あのアパート、民倉荘で暮らすことになったの
も、戦場ヶ原が高校生になってからなのだろうけれど、全ては中学生の頃に、もう終わってい
たのだ。
終わっていたのだ。
だから。
だから戦場ヶ原は――中
学生でもない高校生でもない、そんな中途半端な時期に――行き
遭った。
一匹の蟹に。
「おもし蟹ってのはね、阿良々木くん。だからつまり、おもいし神ってことなんだよね」
忍野は言った。
「分かる? 思いし神ってことだ。また、思いと、しがみ――しがらみってことでもある。そ
う解釈すれば、重さを失うことで存在感まで失ってしまうことの、説明がつくだろう? あま
りに辛いことがあると、人間はその記憶を封印してしまうなんてのは、ドラマや映画なんかに
よくある題材じゃないか。たとえて言うならあんな感じだよ。人間の思いを、代わりに支えて
くれる神様ってことさ」
つまり、蟹に行き遭ったとき。
戦場ヶ原は――母親を切ったのだ。
娘を生贄のように幹部に差し出し、助けてくれもせず、そのせいで家庭も崩壊し、でも、あ
? ? ? ? ?
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?
いけにえ
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