。それにしても、自分の片腕がそんなことに
なっちゃってるっていうのに、全く元気のいいお嬢ちゃんだね。何かいいことでもあったのか
い? ま、ともかく――『ファウスト』の話。ヨハン?ウォルフガング?フォン?ゲーテ、疾
風怒濤時代、シュトゥルム?ウント?ドラングの代表的作家なんだけれど、その作家の集大成
としての代表作が、戯曲『ファウスト』だよ。その内容は――お嬢ちゃん、じゃあ知ってる限
りでいいから、阿良々木くんに教えてあげてくれるかな?」
「ん、ああ」
遠慮がちに僕を見る神原。
微妙に申し訳なさそうな目線。
ジェイコブズの『猿の手』の梗概を話してくれたときもそうだったのだけれど、神原駿河は
性格的に、目上にあたる人物に対して何かを教えるという行為には、どうやら後ろ暗さのよう
とつじょ
しっ
ぷうどとう
こうがい
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なものを感じてしまうらしい。
徹底して体育会系だ。
「ゲーテの代表作というのは、忍野さんの言った通りで……そうだな、わかりやすい特徴とし
ては、それが二部から構成された物語であるということかな。『初稿ファウスト』、『ファウ
スト断片』を経て、『ファウスト第一部』、『ファウスト第二部』。そんな風に六十年以上も
かかって完結した、最大な大作なのだ。全くもって頭が下がる。ゲーテといえば『若きウェル
テルの悩み』や『親和力』も有名だが、渾身の一作といえば、やはり満場一致で『ファウス
ト』ということになるのだろう。主人公のファウスト博士が、メフィストフェレスという悪魔
に魂を売り渡し――全ての知識を得ようとする物語、とでも言えば、紹介としては十分だろ
う。ネタバレになるから詳しくは話せないけれど、内容としては、第一部では庶民の娘である
グレートヒェンとの恋愛を、第二部では理想国家の建設を描いている。哲学思想というか、知
識探求の物語と読むのが一般的だな。阿良々木先輩ならば、まあ当然ご存知だろうとは思う
が、『ファウスト的衝動』という言葉もあるくらいで、それは、全てを知り、全てを体験しよ
うという知識欲にのっとった衝動のことを言うのだ」
「…………」
『ファウスト』自体を知らない先輩が、どうして『ファウスト的衝動』なんて言葉を知ってい
ると、この体育会系の後輩は思うのだろう。
「悪魔に魂を売るってところが、その話の肝なんだよね――悪魔に魂を売って、その『ファウ
スト的衝動』に基づく願いを、叶えてもらおうとするファウスト博士……結末がどうなるのか
は、勿論、阿良々木くんに本屋さんに行ってもらうことにしよう。うん、まあ、そうなんだ。
お嬢ちゃんが説明したところまでが、一般常識だ、そこまで認識できていれば、僕も話がしや
すいよ。読んでないのにそこまで立て板に水で弁舌さわやかに語ることができるってのは、全
くもって素晴らしい。付け加えることがあるとすれば、そうだな、案外知られていないんだけ
ど――まあ、そうはいってもゲーテについての解説本とかを読めば普通に書いてあることなん
だけどさ、実際、古典なんて今時の人間は読まないからね。お嬢ちゃんのことを言うわけじゃ
ないけれど、読まなくても読んだ気になっちゃうような有名な話をわざわざ読む必要はないっ
てわけだ。だから知られていなくてもしょうがないんだけど、うん、そもそも、この『ファウ
スト』って物語は、実在の人物をモデルにしていてね」
「なに? そうなのか?」
意外そうなリアクションをする神原。
『ファウスト』自体を知らない先輩には、驚きのポイントがどこなのかわからない。
「ヨハン?ファウスト。文芸復興、いわゆるルネサンスの時代に生きたと言われているよ……
しょこう
こんしん
きも
べんぜつ
ふっこう
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まあ実在の人物といっても、その辺りはその辺りで諸説あるんだけれど、この人についてのお
話が、後に民間伝承となったのさ。医者や魔術師として放浪生活を送り、やっぱり悪魔?メ
フィストフェレスに魂を売り、ありとあらゆる知識と経験と引き換えに、キリスト教徒の敵と
して行動することを悪魔と約束し、それから二十四年間に亘って、まさしく『ファウスト的衝
動』のままに生きて――契約が切れたと同時に、悲惨な最期を迎えることになる。これも詳し
くは自分で調べなさい、『ファウストゥス博士』に詳しいから」
「ふうん……そうだったのか」
忍野の雑学に、感心した風な神原だった。まあ『ファウスト』云々はともかく、民間伝承が
噛んでいるのなら忍野の分野だから、この程度の博引傍証は恒例のことなのだけれど、この感
じだと、ひょっとするとこれからは忍野のことも持ち上げるようになるのだろうか。という
か、その辺りの神原の基準が僕にはよくわからない。どうやら、誰に対しても同じように差別
なく褒め殺すというわけでは、ないみたいだが……。
「てっきり、ゲーテの創作だとばかり思っていた。巷の言い伝えを下敷きにしていたのか」
「まあ、ストーリーにゲーテ流のアレンジがかなり加えられているから、強いていうならゲー
テ版『ファウスト博士』って感じだね。太宰の『走れメロス』や芥川の『羅生門』みたいなも
のだ。今昔物語と芥川とじゃ、『羅生門』の印象もだいぶん違うだろう? そんな感じ。ゲー
テ以外にも、ファウスト伝説は色んな人が物語化しているよ。有名なところでは、イギリスの
マーロウとかね。マーロウは知ってる? レイモンド?チャンドラーのフィリップ?マーロウ
じゃないよ? クリストファー?マーロウだ。シェイクスピアの先輩作家として紹介されるこ
とが多い人なんだけれど、ほら、『フォースタス博士』っていってね」
「ファウストの方が医者というのは、少し面白い」
神原は微妙なはにかみと共にそう言った。
うん? と忍野が怪訝そうに首を傾げたところを見ると、そのはにかみの意味は忍野には通
じなかったみたいだけれど。
「けど……忍野」
どことなく話が逸れているような気がしたので、僕は、『ファウスト』については結局よく
わからないままに、忍野と神原との会話に参加を試みることにした。
「それがどうかしたのか? いつもながらのまだるっこしい長広舌は大いに結構なんだけど、
それが現在の神原の状況にどう繋がってくるのか、僕にはわからないよ。テーマが脱線して、
横滑りを起こしてるんじゃないか? 魂と引き換えに悪魔が願いを叶えてくれるってところ
は、そりゃ猿の手に似ているのかもしれないけれど、でも、この神原の腕が、『ファウスト』
に登場する悪魔、メフィストフェレスとやらの腕ってわけじゃないだろ
う? 猿の手ならぬ悪
わた
ちまた
し
あくたがわ らしょうもん
ちょうこうぜつ
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魔の手だなんて――」
「いや、まさしくその通りなんだ、阿良々木くん。今日の阿良々木くんは冴えてるよ」
忍野は――
びっ、と僕を、気取った風に、指さした。
「『神』原って苗字を有するお嬢ちゃんに悪魔の手じゃ、まるで出来過ぎだけれど、まあ猿蟹
合戦とか、この前の迷子ちゃん