第4章

の忠告通り

――動かずにいることしか――できなかった。

怖い。

と、思った。

カッターナイフの刃が――ではない。

僕にそんな真似をしておきながら、ちっとも揺るがない、ぞっとするくらいに冷えた視線で

とびら

はあく

ねら す

すきま こうこう

ひだりほお

まね

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――僕を見つめる戦場ヶ原ひたぎが、怖かった。

こんな――

こんな剣呑な目をした、奴だったのか。

確信した。

今、僕の左頬の内側に添えられているカッターナイフの刃が、潰されてもおらず、絶対に峰

でもないということを、戦場ヶ原のその目を見ることで、僕は確信した。

「好奇心というのは全くゴキブリみたいね――人の触れられたくない秘密ばかりに、こぞって

寄ってくる。鬱陶しくてたまらないわ。神経に触れるのよ、つまらない虫けらごときが」

「……お、おい――」

「何よ。右っ側が寂しいの? だったらそう言ってくれればいいのに」

カッターナイフを持っている右手とは反対の左手を、戦場ヶ原は振り上げる。その素早さ

に、平手打ちでもされるのかと僕は、歯を食いしばらないように身構えたが、しかし、違っ

た。そうではなかった。

戦場ヶ原は左手にはホッチキスを持っていた。

それがはっきりと視認できるよりも先に、彼女はそれを、僕の口の中に差し込んだ。勿論

ホッチキスの全部を差し込んだわけではない、そうしてくれていたらむしろよかった、戦場ヶ

原は、僕の右頬肉を、ホッチキスで挟み込むように――綴じる形で、差し込んだのだ。

そして、緩く――挟まれる。

綴じる、ように。

「か……は」

体積の大きい頭の方、つまり、ホッチキスの針が装填されている側を入れられているため、

僕の口の中は大入り満員状態で、当然のように、言葉を発することができなくなる。カッター

だけなら、動けないまでもまだ喋ることはできたのだろうが――今はもう、それを試す気にも

ならない。考えたくも無い。

まず薄くて鋭いカッターナイフを差し込むことで大口を開けさせ、そこにすかさずホッチキ

スを続ける――隅々まで計算された、恐ろしい手際の良さだった。

畜生、口の中にこんな色々突っ込まれたことなんて、中学一年生の頃に永久歯の虫歯の治療

を受けて以来だ。あれから、二度とそんなことがないように、毎朝毎晩毎食後、歯を磨き続

け、キシリトール入りのガムをかみ続けてきたというのに、それがまさかこんなことになろう

とは。

なんて足元のすくわれ方だ。

またたく間に――この状況。

けんのん

つぶ みね

うっとう

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?

はさ と

ゆる

そうてん

しゃべ

するど

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つい壁一枚隔てた向こう側で、羽川が文化祭の出し物の候補を決めているだなんて、とても

思えないような異常空間が、何の変哲も無い私立高校の廊下において、形成されていた。

羽川……。

何が『一見危なっかしい感じの苗字だけど』だ。

思いっきり名前通りの女じゃないか……。

あいつも案外人を見る目がないなあ!

「羽川さんに私の中学時代の話を聞いたところで、次は担任の保科先生かしら? それとも一

足飛ばしに、保健の春上先生のところへ行ってみる?」

「………………」

喋れない。

そんな僕をどう見ているのか、戦場ヶ原は、やれやれといった風に、大仰にため息をつく。

「全く私も迂闊だったわ。『階段を昇る』という行為には人一倍気を遣っているというのに、

この有様。百日の説法屁一つとはよく言ったものだわ」

「………………」

こんな状況でも花も恥じらう十代の乙女が屁という言葉を口にすることに抵抗を覚える僕は

案外いい奴なんじゃないかと思った。

「まさかあんなところにバナナの皮が落ちているだなんて、思いもしなかったわ」

「………………」

僕は今バナナの皮で足を滑らす女に活殺自在。

ていうかなんでそんなものが学校の階段に。

「気付いているんでしょう?」

戦場ヶ原は僕に問う。

目つきは、剣呑なままだ。

こんな深窓の令嬢がいてたまるか。

「そう、私には――重さがない」

体重が、ない。

「といっても、全くないというわけではないのよ――私の身長?体格だと、平均体重は四十キ

ロ後半強というところらしいのだけれど」

五十キロらしい。

左頬が内側から伸ばされ、右頬肉が圧迫された。

「…………っ!」

「変な想像は許さないわよ。今私のヌードを思い浮かべたでしょう」

へんてつ

ほしな いっ

そく はるかみ

うかつ のぼ つか

せっぽうへ

すべ

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全然違うが、結果的には鋭かった。

「四十キロ後半強というところらしいのだけれど」

戦場ヶ原は主張した。

譲らないみたいだ。

「でも、実際の体重は、五キロ」

五キロ。

生まれたばかりの赤子と、そう変わらない。

五キロのダンベルを思い浮かべれば、一概にゼロに近いといえるほどの数字ではないが、し

かし五キロという質量が、人間一人の大きさに分散していることを考えれば、密度の問題――

実感としては、体重がないも同然だ。

受け止めるのも、容易い。

「まあ、正確を期すなら、体重計が表示する重量が五キロというだけなのだけれど――本人と

しては自覚はないわ。四十キロ後半強だった頃も、私自身は、今も、何も変わらない」

それは――

重力から受ける影響が少ないということなのだろうか? 質量ではなく、容積――確か、水

の比重が一で、人間もほとんど水で構成されている都合上、比重、密度はおよそ一――単純に

考えて、戦場ヶ原はその十分の一の密度であるということになる。

骨密度がそんな数字なら、あっという間に骨粗鬆症だろう。内臓だって脳髄だって、正しく

は動作しないはずだ。

だから、そうじゃない。

数字の問題じゃ――ない。

「何を考えているかわかるわよ」

「…………」

「胸ばかりみて、いやらしい」

「…………っ!」

断じて考えていない!

どうやら戦場ヶ原はかなり自意識の高い女子高生のようだった。それだけ綺麗な容姿をして

いれば無理もないが――爪の垢でも煎じて、壁の向こうで仕事をしている委員長に飲ませてあ

げたい。

「底の浅い人間はこれだから嫌になるわ」

この状況では、どうも、誤解を解くのは不可能のようだとして――ともかく、僕が考えてい

たのは、戦場ヶ原は、つまり、病弱とは縁遠い、与えられている立ち位置がまるで看板違いな

ゆず

たやす

こつそしょうしょう のうずい

つめ あか せん

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身体であるということだ。体重が五キロだなんて、それこそ病弱どころか貧弱であるはずなの

に、そうじゃない。どころか――強いて言うなら、重力が十倍の星から地球にやってきた宇宙

人みたいなものだろう、かなり、運動能力は高いはずだ。元々、陸上部だったというのだか

ら、尚更である。ぶつかり合いに向いていないのは確かだろうが……。

「中学校を卒業して、この高校に入る前のことよ」

戦場ヶ原は言った。

「中学生でも高校生でもない、春休みでもない、中

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