途半端なその時期に――私はこうなった
の」
「…………」
「一匹の――蟹に出会って」
か――蟹?
蟹と言ったか?
蟹って――冬に食べる、あの蟹?
甲殻綱十脚目の――節足動物?
「重さを――根こそぎ、持っていかれたわ」
「…………」
「ああ、別に理解しなくていいのよ。これ以上かぎまわられたらすごく迷惑だから、喋っただ
けだから。阿良々木くん。阿良々木くん――ねえ、阿良々木暦くん」
戦場ヶ原は。
僕の名を、繰り返して、呼んだ。
「私には重さがない――私には重みがない。重みというものが、一切ない。全く困ったもの
じゃない。さながら『ヨウスケの奇妙な世界』といった有様よ。高橋葉介、好きかしら?」
「…………」
「このことを知っているのはね、この学校では、保健の春上先生だけなの。今現在、保健の春
上先生だけ。校長の吉城先生も教頭の島先生も学年主任の入中先生も担任の保科先生も知らな
いわ。春上先生と――それから、あなただけ。阿良々木くん」
「…………」
「さて、私は、あなたに私の秘密を黙っていてもらうために、何をすればいいのかしら? 私
は私のために、何をすべきかしら? 『口が裂けても』喋らないと、阿良々木くんに誓っても
らうためには――どうやって『口を封じれば』いいかしら?」
カッターナイフ。
ホッチキス。
なおさら
はんぱ ? ?
? ? ? ? ? ? ? ? ?
かに
こうかくこうじっきゃくもく せっそく
こよみ
たかはしようすけ
よしき しま いりなか
? ? ? ? ? ? しゃべ
? ? ? ? ? ?
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正気か、こいつ――同級生に対して、なんて追い込み方をするんだ。こんな人間がいていい
のか? こんな恐ろしい人間と、机を並べて同一空間内に、二年以上もいたのかと思うと、素
直に背筋が震える。
「病院の先生が言うには、原因不明――というより、原因なんかないんじゃないかって。他人
の身体をあそこまで屈辱的に弄繰り回して、その結論はお寒いわよね。元から、それがそうで
あるように、そうであったとしかいえない――なんて」
戦場ヶ原は自嘲のように言う。
「あまりに馬鹿馬鹿しいと思わない? 私――中学校までは、普通の、可愛い女の子だったの
に」
「………………」
手前で手前のことを可愛いと言い放った事実はひとまず置いておくとして。
病院に通っているのは、本当だったか。
遅刻、早退、欠席。
それに――保健の先生。
どんな気分なのだろう、と、考えてみる。
僕のように――僕のように、ほんの短い、二週間程度の春休みの間だけではなく――高校生
になってから、ずっとそうだった、というのは。
何を諦め。
何を捨てるのに。
十分な、時間だっただろう。
「同情してくれるの? お優しいのね」
戦場ヶ原は、僕の心中を読んだのか、吐き捨てるようにそう言った。汚らわしいとでも、言
わんばかりに。
「でも私、優しさなんて欲しくないの」
「…………」
「私が欲しいのは沈黙と無関心だけ。持っているならくれないかしら? ニキビもない折角の
ほっぺた、大事にしたいでしょう?」
戦場ヶ原は。
そこで、微笑んだ。
「沈黙と無関心を約束してくれるのなら、二回、頷いて頂戴、阿良々木くん。それ以外の動作
は停止でさえ、敵対行為と看做して即座に攻撃に移るわ」
一片の迷いもない言葉だった。
? ? ? ? ? ?
せすじ ふる
? ?
くつじょく いじく ? ? ? ? ?
? ? ? ? ? ? ? ?
じちょう
かわい
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?
? ? ? ? ? ? ? ?
あきら
せっかく
ほほえ
うなず ちょうだい
みな
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試用中
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僕は、選択の余地なく、頷く。
二回、頷いてみせる。
「そう」
戦場ヶ原はそれを見て――安心したようだった。
選択の余地のない、取引とも協定とも言えない、こちらとしては同意するしかない要求だっ
たにもかかわらず――僕がそれに素直に応じたことに、戦場ヶ原は、安心、したようだった。
「ありがとう」
そう言って、まずはカッターナイフを、僕の左頬内側の肉から離し、ゆっくりと、慎重とい
うよりは緩慢な動作で、抜く。その際に、誤って口腔を傷つけないようにと、配慮の感じられ
る手つきだった。
抜いたカッターの、刃を仕舞う。
きちきちきちきち、と。
そして、次はホッチキス。
「……ぎぃっ!?」
がじゃこっ、と。
信じられないことに。
ホッチキスを――戦場ヶ原は、勢いよく、綴じた。そして、その激しい痛みに反応して、僕
がアクションを取る前に、すいっと要領よく、そのホッチキスを、戦場ヶ原は引き抜く。
僕は、その場に、崩れるように、蹲った。
外側から頬を抱えるように。
「ぐ……い、いい」
「悲鳴を上げないのね。立派だわ」
そ知らぬ顔で――
戦場ヶ原が、上から言った。
見下すように。
「今回はこれで勘弁してあげる。自分の甘さが嫌になるけれど、約束してくれた以上、誠意を
もって応えないとね」
「……お、お前――」
がじゃこっ。
僕が何か言おうとしたところに、被せるように、戦場ヶ原は、ホッチキスを、音を立てて―
―中空で、綴じた。
変形した針が、僕の目の前に落ちる。
しんちょう
かんまん はいりょ
しま
? ? ? ? ?
うずくま
? ? ? ? ?
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試用中
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試用中
試用中
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自然、身が竦んだ。
反射という奴だ。
たった一回で――条件反射が組み込まれた。
「それじゃ、阿良々木くん、明日からは、ちゃんと私のこと、無視してね。よろしくさん」
それだけ言って、僕の反応を確認するようなこともなく、
戦場ヶ原は踵を返し、すたすた
と、廊下を歩いていった。僕が、蹲った姿勢から、何とか立ち上がるよりも前に、角を折れ
て、その後ろ姿は見えなくなる。
「あ……悪魔みたいな女だ」
脳味噌の構造が――はなっから、違う。
あの状況にあっても、そうは言っても、実際にやったりはしないのだろうと、どこか僕は、
たかをくくっていた。むしろこの場合、あいつがカッターナイフではなくホッチキスの方を選
択してくれたことを、幸運と取るべきか。
先刻までのように痛みを和らげるためではなく、頬の状態を確認するために、そっと、撫で
る。
「………………」
よし。
大丈夫だ、貫通はしていない。
続けて僕は、口の中に、今度は自分の指を差し込む。右頬なので左の指だ。すぐに、それら
しき感触に行き当たった。
全然消えてなくならない、弱くもならない鋭い痛みで、分かりきってはいたことだが――
ホッチキスの針は、実は一発目は装填されていなかった、やっぱりただの脅し脅かしでしたと
いう、平和的な線は、消滅ってわけか……正直、かなり期待していたのだが。
まあいい。
貫通していないということは、針は、極端に変形していないということだ……ほとんど、コ
の字形の直角状態を保っているはず。言うなら返しのついていない形、ならばそれほどの抵抗
なく、力任せに引き抜け