第7章

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だ。

血も凍るような、美人だった。

美しい鬼だった。

とても――美しい鬼だった。

学ランのカラーで隠れてはいるが、今でも僕の首筋には、彼女に深く咬まれた、その痕跡が

残っている。暑くなる前に、どうにか髪が伸びてくれればと思っているのだが、それはさてお

き――普通、一般人が吸血鬼に襲われたとなれば、たとえばヴァンパイアハンターとかいう吸

血鬼専門の狩人だったり、キリスト教の特務部隊だったり、あるいは吸血鬼でありながら同属

を狩る吸血鬼殺しの吸血鬼だったりが、助けてくれるのがストーリーってものなのだろうが、

僕の場合、通りすがりの小汚いおっさんに助けられた。

それで、僕は何とか、人間に戻れたが――日光も十字架も大蒜も平気になったが、しかし、

その影響というか後遺症で、身体能力は、著しく、上昇したままなのだ。といっても、運動能

力ではなく、新陳代謝など、いわゆる回復力方面の話だが。カッターナイフで頬を切り裂かれ

ていたら果たしてどうだったかはわからないが、ホッチキスの針が刺さった程度ならば、回復

するまでに三十秒もいらない。それでなくとも、どんな生物であれ、口の中の傷の回復は早い

ものなのだ。

「忍野――忍野さん?」

「そう。忍野メメ」

「忍野メメ、ね――なんだか、さぞかしよく萌えそうな名前じゃないの」

「その手の期待はするだけ無駄だぞ。三十過ぎの年季の入った中年だからな」

「あっそう。でも子供の頃は、さぞかし萌えキャラだったのでしょうね」

「そういう目で生身の人物を見るな。ていうか、お前、萌えとかキャラとか分かる奴なの

か?」

「これしき、一般教養の部類よ」

戦場ヶ原は平然と言った。

「私みたいなキャラのことを、ツンデレっていうのでしょう?」

「………………」

お前みたいなキャラはツンドラって感じだ。

閑話休題。

僕や羽川、戦場ヶ原の通う、私立直江津高校から、自転車で二十分くらい行った先、住宅街

から少し外れた位置に、その学習塾は建っている。

建っていた。

か こんせき

かりうど

? ? ? ? ? ? ? にんにく

こういしょう いちじる

しんちんたいしゃ

むだ

なおえつ

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数年前、駅前に進出してきた大手予備校のあおりをもろに食らう形で、経営難に陥り、潰れ

てしまったそうだ。僕がこの、四階建てのビルディングの存在を知ったときには、もう見事な

廃墟になった後だったので、その辺りは全て、聞いた事情という奴だけれど。

危険。

私有地。

立入禁止。

そんな看板が乱立し、安全第一のフェンスで取り囲まれてはいるものの、そこらじゅうが隙

間だらけで、出入りは自由と言っていい。

この廃墟に――忍野は住んでいる。

勝手に居ついている。

春休みから数えて、一ヵ月、ずっとだ。

「それにしてもお尻が痛いわ。じんじんする。スカートに皺がよっちゃったし」

「僕の責任じゃない」

「言い逃れはやめなさい。切り落とすわよ」

「どの部位をですかっ!?」

「自転車の二人乗りなんて私は初めての経験だったのだから、もっと優しくしてくれてもよさ

そうなものじゃない」

優しさは敵対行為じゃなかったのか。

言うことなすこと滅茶苦茶な女だ。

「じゃあ、具体的にどうすればよかったんだよ」

「そうね。ほんの一例だけれど、たとえば、あなたの鞄を座布団代わりに寄越すなんてのはど

うだったかしら」

「自分以外はどうでもいいのかお前は」

「お前呼ばわりしないで頂戴。ほんの一例だけれどって言ったじゃない」

それが何のフォローになっているのだろう。

はなはだ疑問だった。

「ったく――実際、マリー?アントワネットだって、お前よりはもう少し謙虚で、慎み深い人

間だったろうよ」

「彼女は私の弟子みたいなものなの」

「時系列はっ!?」

「そんな気安く私の言葉に突っ込みを入れないでくれるかしら。さっきから、もう、本当に馴

れ馴れしいわ。もしも知らない人に聞かれたらクラスメイトだと思われるじゃない」

おちい

はいきょ

しわ

めちゃくちゃ

かばん ざぶとん よこ

つつし

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「いや、クラスメイトじゃん!」

そこまで否定されるのかよ。

なんだか、あんまりだ。

「たく……お前を相手にするには、どうやらとてつもない忍耐力が必要とされるようだな…

…」

「阿良々木くん。その文脈だと阿良々木くんじゃなくて私の性格が悪いみたいに聞こえるわ

よ?」

そう言ったんだ。

「ていうか、お前、自分の鞄はどうしたんだ。手ぶらだけど。持ってないのか」

そういえば、戦場ヶ原が、手に荷物を持っている図というのを、僕はこれまで、見た覚えが

ない。

「教科書は全て頭の中に入っているわ。だから学校のロッカーに置きっぱなし。身体中に文房

具を仕込んでおけば、鞄は不要ね。私の場合、体育の着替えなんかは、いらないし」

「ああ、なるほど」

「両手が自由になっていないと、いざというときにどうしたって戦いにくいもの」

「…………」

全身凶器。

人間凶器。

「生理用品を学校に置いたままにするのには抵抗があるから、困るのはそれくらいね。友達が

いないから誰にも借りられないし」

「……そういうことをさらりと言うな」

「何よ。文字通り生理現象なのだから、恥ずかしいことではないわ。隠す方がいやらしいで

しょう」

隠さないのもどうかと思う。

いや、個人の主義だ。

口は出すまい。

むしろ、意識に留めておくべきなのは、よりさらりと言った――友達がいないからという、

発言の方なのかもしれない。

「ああ、そうだ」

僕は別にそういうのは気にしないけれど、先程のスカートに関する発言からも見て取れるよ

う、やはり戦場ヶ原も女の子だから、制服がほつれたりするのは嫌うだろうと、大きめの入り

口を探し、そこに辿り着いたところで、僕は戦場ヶ原を振り向いた。

? ?

? たど

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「その文房具とやら、僕が預かる」

「え?」

「預かるから、出せ」

「え? え?」

法外な要求を受けたという顔をする戦場ヶ原だった。あなたって頭おかしいんじゃないのと

でも言いたげな感じ。

「忍野は、なんというか、変なおっさんだけど、一応、僕の恩人なんだ――」

それに。

羽川の恩人でもある。

「――その恩人に、危険人物を会わせるわけにはいかないから、文房具は、僕が預かる」

「ここに来てそんなことをいうなんて」

戦場ヶ原は僕を睨む。

「あなた、私を嵌めたわね」

「…………」

そこまで言われるようなことかなあ?

しかし、戦場ヶ原は、かなり真剣な葛藤を、暫くの間、一言の口も利かずに、続けた。時折

僕をねめつけながら、時折足元の一点を見つめるようにしながら。

ひょっとしたらこのまま踵を返して帰っちゃうのかもしれないと思ったが、しかし、やが

て、戦場ヶ原は、「了承したわ」と、覚悟を決めたように、言った。

「受け取りなさい」

そして、彼女は、身体中のあちこちから、百花繚乱様々な文房具を、さながらマジック

ショーの様に[#底本「のに」修正]取り出し、僕に手渡した。

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