第11章

それ以外にはない! 自分で自分の間違いを正せるなんてなかなか

できることじゃない、さすがは戦場ヶ原さん!」

……などと、精々そんなやり取りがあった程度なのだから、僕としてはもう、戸惑うしかな

い。まして、知り合ったばかりの女の子の家に入るなんて、とか、そんなウブな文言を吐ける

状況でもなかった。

ただ、お茶を、見つめるだけである。

その戦場ヶ原は今、シャワーを浴びている。

身体を清めるための、禊ぎだとか。

忍野いわく、冷たい水で身体を洗い流し、新品でなくともよいから清潔な服に着替えてくる

ように――との、ことだった。

要するに僕はそれにつき合わされているというわけだ――まあ、学校から忍野のところまで

僕の自転車で向かってしまった都合上、それは当然のことでもあったのだが、それ以上に忍野

から、色々言い含められているので、仕方がない。

僕は、とても年頃の女の子の部屋とは思えない、殺風景な六畳間をぐるりと見、それから、

背後の小さな衣装箪笥にもたれるようにして――

先刻の、忍野の言葉を、回想した。

「おもし蟹」

戦場ヶ原が、事情を――というほど、長い話ではなかったが、とにかく、抱えている事情

を、順序だてて語り終わったところで、忍野は、「成程ねえ」と頷いた後、しばらく天井を見

上げてから、ふと思いついたような響きで、そう言った。

「おもしかに?」

戦場ヶ原が訊き返した。

「九州の山間あたりでの民間伝承だよ。地域によっておもし蟹だったり、重いし蟹、重石蟹、

それに、おもいし神ってのもある。この場合、蟹と神がかかっているわけだ。細部は色々ばら

ついているけど、共通しているのは、人から重みを失わせる――ってところだね。行き遭って

しまうと――下手な行き遭い方をしてしまうと、その人間は、存在感が希薄になる、そうだ、

とも」

「存在感が――」

儚げ。

とても――儚げで。

今の方が――綺麗。

「存在感どころか、存在が消えてしまうって、物騒な例もあるけれどね。似たような名前じゃ

せいぜい

もんごん

みそ

さっぷうけい

だんす

なるほど

? ? あ

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中部辺りに重石石ってのもあるけど、ありゃ全くの別系統だろう。あっちは石で、こっちは蟹

だし」

「蟹って――本当に蟹なのか?」

「馬鹿だなあ、阿良々木くん。宮崎やら大分やらの山間で、そうそう蟹が取れるわけないだろ

う。単なる説話だよ」

心底呆れ果てたように言う忍野。

「そこにいない方が話題になりやすいってこともある。妄想や陰口の方が、盛り上がったりす

るもんだろう?」

「そもそも蟹って、日本のもんなのか?」

「阿良々木くんが言っているのはアメリカザリガニのことじゃないのかい? 日本昔話を知ら

ないのかな。猿蟹合戦。確かに、ロシアの方にゃ、有名な蟹の怪異ってのがあるし、中国にも

結構あるけれど、日本だって、そうそう負けてばかりもいないさ」

「ああ。そっか。猿蟹合戦ね。そういやそんなのもあったな。でも、宮崎やらって――どうし

てそんなところの」

「日本の片田舎で吸血鬼に襲われたきみがそれを僕に訊くなよ。場所そのものに意味があるん

じゃないからね、別に。そういう状況があれば――そこに生じる、それだけだ」

勿論、地理気候も重要だけれど、と付け加える忍野だった。

「この場合、別に蟹じゃなくてもいい。兎だって話もあるし、それに――忍ちゃんじゃないけ

れど、美しい女の人だっていう話もある」

「ふうん……月の模様みたいだな」

ていうか、忍ちゃん呼ばわりだった。

筋ではないが、少し同情してしまう。

伝説の吸血鬼なのに……。

切ないなあ。

「まあ、お嬢ちゃんが行き遭ったのが蟹だっていうんなら、今回は蟹なんだろう。一般的だし

ね」

「なんなんですか、それは」

戦場ヶ原は強気な調子で、忍野に問う。

「名前なんて、そんなのは何だって構いませんけれど――」

「そうでもないさ。名前は重要だよ。阿良々木くんにさっき教えてやった通り、九州の山奥で

蟹はないからね。北の方じゃ、そういうのもあるみたいだけれど、九州じゃやっぱり珍しい

よ」

さるかに

? ? ? ? ? ? ?

うさぎ

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「サワガニなら取れんじゃねえの」

「かもね。でも、それは本質的な問題じゃない」

「どういうことですか」

「蟹じゃなくて、元は神なんじゃないのかってことさ。おもいし神から、おもし蟹へ派生し

たって感じ――もっとも、これは、僕のオリジナルの説だけどね。普通は、蟹がメインで神が

後付けだと思われている。真っ当に考えると、確かに、最低でも同時発生ってことになるんだ

けれども」

「普通も真っ当も何も、そんな化物は知りません」

「知らないってことはないよ。何せ――」

忍野は言った。

「遭っているんだから」

「…………」

「そして――今だってそこにいる」

「何か――見えるっていうんですか」

「見えないよ。僕には何も」

そう言って、忍野は快活に笑った。爽やかさが過ぎるその笑い方は、矢張り、戦場ヶ原の気

に障るようだった。

それは僕も同感だ。茶化しているようにしか思えない。

「見えないなんて、まるで無責任ですね」

「そうかい? 魑魅魍魎の類ってのは、人に見えないのが基本だろう。誰にも見えないし、ど

うやっても触れない。それが普通だ」

「普通――ですけれど」

「幽霊は足がないとか言ってさ、吸血鬼は鏡に映らないとか言ってさ、でもそもそもそういう

問題じゃなく、ああいうものは、そもそも同定できないのが基本――しかし、お嬢ちゃん。誰

にも見えないし、どうやっても触れないものってのは、この世に果たして、あるんだろう

か?」

「あるんだろうかって――あなたが、今、そこにいると、自分で言ったんじゃないですか」

「言ったよ? でも、誰にも見えないし、どうやっても触れないものなんて、いてもいなくて

も、そんなの、科学的にはおんなじことだろう? そこにあることと、そこにないことが、全

く同じだ」

そういうこと、と忍野は言った。

戦場ヶ原は納得いかないような顔をしている。

はせい

? ? ? ? ? ? ? ? ?

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?

? ? ? ? ?

? ? ? ? ? ? ? ? ? ?

やは

さわ

ちみもうりょう

うつ

? ?

? ?

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確かに、納得できる理屈ではない。

彼女の立場からすれば。

「ま、お嬢ちゃんは、運の悪い中じゃあ運のいい部類だよ。そこの阿良々木くんなんて、行き

遭うどころか襲われたんだから。それも吸血鬼に襲われた。現代人としてはいい恥晒しだよ」

放っとけ。

かなり放っとけ。

「それに較べればお嬢ちゃんは全然マシだ」

「どうしてですか」

「神様なんてのは、どこにでもいるからさ。どこにでもいるし、どこにもいない。お嬢ちゃん

がそうなる前からお嬢ちゃんの周囲にはそれはあったし――あるいはなかったとも言える」

「禅問答ですね。まるで」

「神道だよ。修験道かな」

忍野は言う。

「勘違いするなよ、お嬢ちゃん。きみは何

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