「言葉の暴力って知ってるか」
「なら言葉の警察を呼びなさいよ」
「…………」
現実の警察でも対処できない気がした。
「何も知らないってことはないぞ、僕だって。えーっと、たとえばそうだな、日本じゃやっぱ
り、月の模様といえば兎なわけだけれど、なんで月に兎がいるか、知ってるか?」
「月に兎はいないわ。阿良々木くん、高校生にもなってそんなことを信じているの?」
「いるとして、だ」
あれ、いるとして、じゃないか?
いたとしたら?
何か違うな……。
「その昔、神様がいてだ、仏様だったかな、まあそんなのどっちでもいいや、神様がいて、兎
はその神様のために、自分から火の中に飛び込んで、その身を焼いて、神様への供物にしたと
いう話があるんだ。神様はその自己犠牲に心打たれて、皆がいつまでもその兎のことを忘れな
いようにと、空の月に、その姿を留めたと言うんだな」
子供の頃テレビで見ただけの、記憶が曖昧な話なのでいまいち知識として脇が甘い感じだ
が、まあディテール的にはこんな感じだったはずだ。
「神様も酷いことをするわね。それじゃあ兎はまるで晒しモノじゃない」
「そういう話じゃないんだが」
「兎も兎よ。そうやって自己犠牲の精神を見せれば神様に認めてもらえるだろうという計算が
見え透いて、浅ましいわ」
「そういう話じゃ絶対にないんだが」
「いずれにせよ、私辺りには分からない話ね」
そう言って。
着かけた新しい上着を、再び脱ぎ出す戦場ヶ原。
ぎせい
ひど
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「……お前、実は自慢の肉体を僕に見せびらかしたいだけなのか?」
「自慢の肉体だなんて、そんなに自惚れていないわ。裏返しで、しかも後ろ前だっただけよ」
「器用なミスだな」
「でも確かに、服を着るのは得意じゃないの」
「子供みたいな奴だ」
「違う。重たいのよ」
「あ」
迂闊だった。
そうか、鞄が重いなら、服だってそうだろう。
十倍の重さとなれば、服であれ、馬鹿にならない。
反省する。
気遣いの足りない――不用意な発言だった。
「こればっかりは、飽きることはあっても慣れることはないわ――けれど、意外と学があるの
ね、阿良々木くん。びっくりしたわ。ひょっとしたら頭の中に脳味噌が入っているのかもしれ
ないわね」
「当たり前だろ」
「当たり前って……あなたのような生物の頭蓋骨に脳味噌が入っているというのは、それはそ
れは、もう奇跡のような出来事なのよ?」
「酷い言われようだなおい」
「気にしないで。当然のことを言ったまでよ」
「この部屋の中に死んだ方がいい奴がいるみたいだな……」
「? 保科先生ならいないわよ」
「お前今尊敬すべき人生の先導者である担任の先生のことを死んだ方がいいって言ったの
か!」
「蟹もそうなの?」
「え?」
「蟹も兎と同じで、火の中に自ら飛び込んだの?」
「あ、ああ……いや、蟹の話は知らない。なんか由来があるのかな。考えたこともなかったけ
れど……月にも海があるからじゃないのか?」
「月に海はないわ。得意顔で何を言っているの」
「え? ないのか? なかったっけ……」
「天文学が聞いて呆れるわね。あれは名前だけよ」
うぬぼ
ずがいこつ
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「そうなんだ……」
うーむ。
やはり、本当に頭のいい奴には敵わない。
「やれやれ、馬脚を露わしたわね、阿良々木くん。全く、あなたに知識というものを少しでも
期待してしまった私が軽率だったわ」
「お前、僕の頭がすごく悪いと思っているだろう」
「何故気付いたのっ!?」
「真顔で驚かれた!」
隠しているつもりだったらしい。
本当かよ。
「私のせいで、阿良々木くんが、自分の頭のお粗末さ加減に気付いてしまった……責任を感じ
るわ」
「おい、ちょっと待て、僕はそんな深刻なレベルの頭の悪さなのか?」
「安心して。私は成績で人間を差別したりしないわ」
「その言い方が既に差別的じゃねえかよ!」
「唾を飛ばさないで。低学歴がうつるわ」
「同じ高校だ!」
「でも最終学歴となればどうかしら」
「う……」
確かに、それは。
「私は大学院卒。あなたは高校中退」
「三年生になってまで辞めるか!」
「すぐに辞めさせてくださいと、自分から泣いて頼むことになるわ」
「漫画でしか聞いたことのない悪党発言を平然と!?」
「偏差値チェック。私、七十四」
「くっ……」
先に言いやがった。
「僕、四十六……」
「四捨五入すればゼロね」
「はあ!? 嘘つけ、六だから……あ、お前、さては十の位を――僕の偏差値になんてことをす
るんだ!」
三十近くも勝ってる癖に、死者を鞭打つような真似を!
ばきゃく あら
むち
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「百、差をつけないと、勝った気がしないのよ」
「自分の数値も十の位を……」
容赦ねえ。
「そういうわけで、これからは半径二万キロ以内には近寄らないでね」
「地球外退去を命じられた!?」
「ところで神様は、その兎さんをちゃんと食べてあげたのかしらね?」
「え? あ、また話が戻ったのか。食べたかどうかって……そこまで話を進めたら猟奇的にな
るだろうが」
「進めなくても十分猟奇よ」
「さあね。知らないよ、頭が悪いから」
「すねないでよ。私の気分が悪くなるじゃない」
「お前、僕が可哀想になってこないのか……?」
「あなた一人を哀れんでも、世界から戦争はなくならない」
「たった一人の人間も救えない奴が世界を語るな! まずは目の前のちっぽけな命を助けてみ
ろ! お前にはそれができるはずだ!」
「ふむ。決めたわ」
戦場ヶ原は、白いタンクトップに白いジャケット、そして、白いフレアのスカートを穿き、
ようやく着衣を終えたところで、言った。
「もしも全てがうまく行ったら、北海道へ蟹を食べに行きましょう」
「北海道まで行かなくても蟹は食えると思うし、全然季節じゃないと思うけれど、まあ、戦
場ヶ原がそうした
いって言うんなら、いいんじゃないのか?」
「あなたも行くのよ」
「なんでっ!?」
「あら、知らなかったの?」
戦場ヶ原は微笑した。
「蟹って、とっても、おいしいのよ」
006
ここは地方の、更に外れの町である。
ようしゃ
あわ
はず
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夜になれば、周囲はとても暗くなる。真っ暗な、暗闇。それこそ、廃ビルの中も外も、ほと
んど区別がなくなるくらいの、昼間からの落差だ。
僕にしてみれば、生まれてからずっと住んでいる町のことだ、それに違和感を覚えたり、不
思議に思ったりすることもまずないが、それに、むしろそっちの方が、本来の自然であるのだ
ろうけれど、流れ者の忍野辺りに言わせると、その落差が――概ね、問題の根っこに絡まって
いることが、多いそうだ。
根っこがはっきりしている分やりやすい――
そうも言っていた。
ともかく。
夜中の零時、少し過ぎたところで。
僕と戦場ヶ原は、例の学習塾跡に、自転車で、戻ってきた。後部座席用の座布団には、戦
場ヶ原の家にあったものをそのまま使用した。
何も食べていないので若干空腹である。
自転車