なことを言われるだなんて心外だな」
「あら。根拠があろうがなかろうがいつでも私は阿良々木くんにはそんなことを言い続けてき
たつもりだけれど、今回に限って、特に突っ込みでもなんでもないそういう否定の仕方になる
だなんて、怪しいわね」
「う……」
「さては裸で土下座させるだけでは飽き足らず、そんな私の肉体、全身という全身にあますと
ころなく、油性マーカーで卑猥な言葉をあれこれ書きまくる気ね」
「そんなことまで考えてねえよ!」
「では、どんなことまで考えたのかしら」
「そんなことより、えーと、八九寺」
強引に話題を変える僕だった。
このあたりの手際は戦場ヶ原を見習いたい。
「悪いな、ちょっと、時間かかっちまいそうだ。でも、この辺なことはわかったから――」
「いえ――」
八九寺は、驚くほど冷静な口調で――さながら、わかりきった数式の答を無感情に述べるよ
きぐらい
くつした
あみ
ひわい
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うな、非常に機械的な口調で、言った。
「――多分、無理だと思います」
「え……? 多分……?」
「多分という言葉がご不満でしたら、絶対」
「…………」
多分という言葉に不満があったわけじゃない。
絶対という言葉に満足したわけでもない。
しかし――それでも、何も言えなかった。
その口調に。
「何度行っても、辿り着けないんですから」
八九寺は。
「わたしは、いつまでも、辿り着けないんです」
八九寺は、繰り返した。
「お母さんのところには――辿り着けません」
さながら――壊れたレコードのように。
壊れていない、レコードのように。
「わたしは――蝸牛の迷子ですから」
005
「迷い牛」
安らかな千年の封印の途中で無理矢理叩き起こされたかの如く眠そうな、その上でとてつも
なく不機嫌そうな、唸るように低い声で、忍野メメは、そう言った。低血圧というわけでもな
いだろうが、どうやら忍野は、随分と寝起きが悪い方らしい。普段の気さくな喋り方との落差
が、ものすごかった。
「迷い牛だろ、そりゃ」
「牛? 違うって。牛じゃない、カタツムリだって」
「漢字で書きゃ牛って入っているでしょーが。ああ、阿良々木くんはひょっとして、カタツム
リって片仮名で書いちゃってるの? 知能指数が低いなあ。渦巻きの渦の、さんずいを虫偏に
変えて、それで牛。蝸牛だよ」
うな
うず へん
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「渦――蝸、ね」
「単漢字としては、カ、とかケ、とか読むけれど、まあ、蝸牛以外にはまず使われない漢字だ
ろうね……蝸牛の背負ってる貝殻、渦巻いてるでしょ。そんな感じ……他に、災禍の禍って字
にも似てるけどね……ああ、そっちの方がむしろ象徴的かな? 人を迷わせる類の怪異はそ
りゃ数え切れないくらいにいっぱいいるけれど……行き手を遮る妖怪といえば、阿良々木くん
だって塗壁くらいは知ってるんじゃない? で……、そのタイプで蝸牛だっていうなら、迷い
牛で間違いないでしょ……ま、名前っていうのはこの場合、姿じゃなくて本質を表すものだか
らね、牛でも蝸牛でも同じことなんだよ。形って言うなら、ひとがたの絵だって残ってるし…
…。阿良々木くん、怪異ってのは、名前を考えた人と絵を考えた人が、別の場合がほとんどな
んだよ。全てと言ってもいい――大体、名前の方が先行する。名前というか、概念かな。ま
あ、ライトノベルのイラストみたいなもんだ。ビジュアル化される前に、既に概念は存在して
いる――名は体を表すとかよく言うけれど、あの体っていうのは、肉体、外観って意味じゃな
くて、本体って意味だから……くああ」
本当に――眠そうだった。
しかし、その分、いつもの軽薄な調子がいい加減に抜けていて、僕としては話しやすいくら
いだ。忍野と話すのは、とにかく疲れるのだ。
蝸牛。
マイマイ目の陸生有肺類巻貝。
眼にする機会はどちらかというとナメクジの方が多いが、あっちは、貝殻が退化してしまっ
たタイプ。
塩をかければ――溶けてしまう。
あれから。
僕、阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎ、それに八九寺真宵の三人は、五度のリトライ、コンティ
ニューを試み、法律間近の近道も気が遠くなるほどの遠回りも、例外なく全て試してみたが、
しかし、結果から言うと、それらは全て、見事なまでの華々しい徒労に終わった。間違いな
く、目的地の辺りに自分達がいることは確かだったが――けれど、どうしてだか、そこに辿り
着くことは、できないのだった。最後には一軒一軒、しらみつぶしに探して回るみたいなロー
ラー作戦までやってみたけれど、それすらも徒労だった。
では、最後の最後の手段ということで、戦場ヶ原が、携帯電話の特殊機能で(僕はよく知ら
ない)、GPSだかなんだかのナビゲーションシステムを作動させようとしたが――データの
ダウンロード寸前で、圏外になった。
その時点で、ようやく――あるいは不承不承、遅ればせながら、僕は、この場で何が起こっ
かいがら さいか
さえぎ
ぬりかべ
りくせいゆうはいるいまきがい
はなばな とろう
けんがい
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ているのかを、完全に理解することができた。決してそうは言わなかったけれど、戦場ヶ原
は、それをどうやら、かなり早い段階から察していたようだが――それに、誰より、一番深く
状況を理解していたのは、恐らくは八九寺のようだったが、とにかく。
僕は鬼。
羽川は猫。
戦場ヶ原は蟹。
そして八九寺は蝸牛のようだった。
となると――そういう状況になってしまうと、僕としては、そこで物事を投げ出すわけには
いかなくなった。これが普通の迷子であったのなら、このように自力でなんとかできなかった
のなら、近所の交番にでも届けてそれで自己満足の一件落着といきたいところだったが、あち
ら側の世界が噛んでいるとなれば――戦場ヶ原も、交番に八九寺を任せるのは反対した。
数年間――あちら側に浸っていた、戦場ヶ原。
その戦場ヶ原が言うのだから――違いあるまい。
とはいえ、勿論、僕や戦場ヶ原で、どうにかなるような問題じゃない――僕も戦場ヶ原も、
何らそういう特殊能力を
備えているわけではない。ただ単に、こちら側ではないあちら側があ
るということを、知っているというだけだ。
知は力、なんて言っても。
知っているだけでは、それは、無力だ。
だから僕達は――安易ではあったし安直でもあったし、また、あまり気の進む選択肢でもな
かったけれど、議論の末、最終的には――忍野に相談することにした。
忍野メメ。
僕の――僕達の恩人。
しかし、彼が恩人でもなければできればお付き合いを遠慮させていただきたい種類の人間で
あることは間違いがなかった。三十を過ぎても未だ定住地を持たず、一ヵ月ほど前からはこの
町の、潰れた学習塾を寝床にしている――なんて、そんな現状を説明しただけでも、普通の人
なら引くだろう。
――今のところ、この町には興味があってね。
なんて、そんなことを言っていた。
だから、いついなくなっても不思議じゃない、どうしようもない筋金入りの根無し草ではあ
るが、戦場