第49章

かったのよ」

「おい……戦場ヶ原」

「私のときの蟹と同じで――迷い牛は理由のある人の前にしか現れないそうよ。だから、阿

良々木くんの前に現れたというわけ」

「……いや、だから、蝸牛が現れたのは、僕の前じゃなくて、八九寺――」

「八九寺ちゃん、よね」

? ?

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「…………」

「つまりね、阿良々木くん。母の日で気まずくて、妹さんと喧嘩して、家に帰りたくない、阿

良々木くん。その子――八九寺ちゃんのことなのだけれど」

戦場ヶ原は八九寺を指さした。

つもりなのだろうが――

それは、全然違う、あさっての方向だった。

「私には、見えないのよ」

ぎょっとして――僕は思わず、八九寺を見た。

小さな身体の、利発そうな女の子。

前髪の短い、眉を出したツインテイル。

大きなリュックサックを背負ったその姿は――

どこか、蝸牛に似ていた。

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昔々のその昔――というほどのことではありません、ほんの十年ほど前の話です。あるとこ

ろで、一組の夫婦が、その関係に終焉を迎えました。夫一人、妻一人。合わせて二人。かつて

は周囲の誰もが羨み、周囲の誰もが、幸せになると信じて疑わなかった、そんな二人ではあり

ましたが、結局のところ、二人が婚姻関係にあった期間は十年にも満たない、短いものでし

た。

いい悪いの問題ではないと思います。

そういうパターンだって、普通です。

その夫婦に幼い一人娘がいたことだって普通です――聞くに堪えないような問答があった

末、その一人娘は、父親の元に引き取られることになりました。

最後は泥沼のような状態で、終焉というよりは破綻、あと一年でも同じ屋根の下で暮らして

いたら、それこそ殺し合いにでも発展していたのではないかと思われるほど、行き着いてし

まった夫婦――母親は父親から、二度と一人娘とは会わないことを、誓わされました。法律は

関係ありませんでした。

半ば無理矢理に誓わされました。

しかし一人娘は考えました。

はたん

ちか

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本当にそれは無理矢理だったのだろうかと。

同じように父親から、二度と母親とは会わないことを誓わされた一人娘は考えました――あ

れほど好きだったはずの父親のことをあれほど嫌いになった母親は、ひょっとすると、自分の

ことも嫌いになってしまったのではないかと。そうでないなら、どうしてそんなことを誓える

のか――半ば無理矢理というなら、残りの半分はどうだったのか。けれど、それはまた、自分

にも言えることでした。二度と会わないと、そう誓ったのは自分も同じだったのですから。

そうなのです。

母親だからといって。

一人娘だからといって。

関係に永続性なんて、あるはずがないのです。

無理矢理でしょうがなんでしょうが、誓ってしまった言葉は、もう取り消せません。自分が

自ら選び取った結果を、能動態でなく受動態で語るのは、恥知らずのすることでした――一人

娘はそういう教育を、他ならぬ母親から受けていました。

父親に引き取られ。

母親の苗字を捨てさせられ。

けれど、そんな思いも――風化していきます。

そんな悲しみも、風化していくのです。

時間は、誰にでも、平等に、優しいから。

残酷なくらいに優しいから。

時が過ぎ、九歳から十一歳になった一人娘。

驚きました。

一人娘は、自分の母親の顔が、思い出せなくなってしまいました――いえ、思い出せなかっ

たわけではありません。その顔ははっきりと、思い浮かべることはできます。しかし――それ

が母親の顔なのかどうか、確信が持てなくなっていたのです。

写真を見ても同じでした。

父親に秘密で手元に残していた母親の写真――そこに写っている女性が、本当に自分の母親

なのかどうか、わからなくなってしまいました。

時間。

どんな思いも、風化していきます。

どんな思いも、劣化していきます。

だから――

一人娘は母親に会いに行くことにしました。

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その年の、五月、第二日曜日。

母の日に。

勿論父親にはそんなこと言えるはずもありませんし、母親にあらかじめ連絡を入れるような

こともできません。母親が今どんな状態にあるのか、一人娘は全く知らないのですから――そ

れに。

嫌われていたら。

迷惑がられたら。

あるいは――忘れられていたら。

とても、ショックだから。

正直に言うなら――いつでも踵を返して家に帰れるよう、最後まで計画中止の選択肢を残し

ておくために、一人娘は、誰にも何も言わず、親しい友達にさえ内緒で――母親を訪れまし

た。

訪れようとしました。

髪を自分で丁寧に結って、お気に入りのリュックサックに、母親が喜んでくれるだろう、そ

う信じたい、昔の思い出を、いっぱい詰めて。道に迷わないよう、住所を書いたメモを、手に

握り締めて。

けれど。

一人娘は、辿り着けませんでした。

母親の家には、辿り着けませんでした。

どうしてでしょう。

どうしてでしょう。

本当に、どうしてなんでしょう。

信号は、確かに、青色だったのに――

「――その一人娘というのが、わたしです」

と。

八九寺真宵は――告白した。

いや、それは、懺悔だったのかもしれない。

その、とても申し訳なさそうな、今にも泣き崩れてしまいそうな表情を見ていると、そうと

しか考えられないくらいだった。

戦場ヶ原を見る。

戦場ヶ原の表情は変わらない。

本当に――感情が顔に出ない女だ。

ざんげ

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この状況で、何も思っていないわけがないのに。

「以来……ずっと迷っているってのか、お前は」

八九寺は返事をしなかった。

こちらを見ようともしない。

「目的地に辿り着けなかった者が、他者の帰り道を阻害する――忍野さんはそれを肯定しな

かったけれど、多分

、地縛霊みたいな感じじゃないのかしら。私達、素人の認識ではね。行き

の道、それに帰りの道――往路と復路。巡り巡る巡礼。つまり八九寺だよ――って、そう言っ

ていたわ」

迷い牛。

迷わせ牛じゃなくて――迷い牛である、理由。

そうでなくてはならない理由。

そうだ、怪異自体が――迷っているから。

「でも――蝸牛って」

「だから」

戦場ヶ原は諭すように言う。

淡々と。

「死後、蝸牛に成る――ってことでしょう。地縛霊と言いこそはしなかったけれど、幽霊だっ

ていうのは、忍野さんも言っていたわけだしね。それって、要するに、そういう意味だったん

じゃないの?」

「でも――そんなの」

「でも、それだからこそ――単純な幽霊とはパターンが違うってことなんだと思うわ。私達が

一般的に思い、考えるような幽霊とはね。蟹とも、やっぱり違うんでしょうけれど……」

「そんな……」

でも、そうだ……牛という名称がついていても牛でないように、蝸牛と言ったからといっ

て、蝸牛の形態を取っているとは限らないのか。怪異というものの本質を――取り違えてい

た。

名は体を表す。

本体。

見えているものが真実とは限らないし――それとは逆に、見えていないことが事実であると

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