第50章

限らないんだ、阿良々木くん――。

八九寺真宵。

八九寺、迷い。

そがい

じばくれい

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マヨイとは――元来、縦糸と横糸がほつれて寄ってしまうことを言い、だから糸偏で紕とも

書き、それは、成仏の妨げとなる、死んだ者の妄執をも意味する――また、宵という字は、そ

れ単体では夕刻辺り、即ち黄昏刻、言うなれば逢う魔が刻を意味し、これに真の字を冠すると

それは例外的に否定の接頭語となり、真宵、つまり真夜中、細かくは午前二時を指す古語とな

り――そう、丑三つ刻を意味するのである。牛だったり蝸牛だったりひとがただったり――し

かし、それじゃあ、そんなの、本当に、忍野の言った通りに――

そのまんまじゃ――ないか。

「でも……本当にお前、八九寺が見えてねえっていうのか? ほら、ここにいるし――」

俯いている八九寺の両肩を、強引に抱えるようにして、僕は戦場ヶ原に向かい合う。八九寺

真宵。ここにいるし――こうして触れる。その体温も、その柔らかさも、感じる。地面を見れ

ば、影だって出来ている。噛みつかれれば痛いし――

話せば、楽しいじゃないか。

「見えないわ。声も、聞こえない」

「だって、お前、普通に――」

いや――違う。

違った。

戦場ヶ原は、最初から言っていた。

見えないわよ、そんなの――と。

「私に見えていたのは、あの看板の前でぶつぶつ独り言を言って、最後には一人でパントマイ

ムみたいに暴れだした阿良々木くんだけ――何をしているのか、全くわからなかったわ。で

も、話を聞いてみれば――」

聞いてみれば。

そうだ、戦場ヶ原には、全部――逐一丁寧に、僕が説明したのだ。ああ、そうか――だか

ら、だから戦場ヶ原は――住所の書かれたあのメモを、受け取らなかったんだ。

受け取るも何も、見えなかったから。

なかったから。

「でも――それならそうと、言ってくれれば」

「だから、言えるわけないじゃない。言えるわけがないわ。そんなことがあれば――阿良々木

くんに見えるものが私に見えなければ、見えない私の方がおかしいんだって、私は普通に思う

わよ」

「………………」

二年以上。

マヨイ

たそがれどき お

うしみ どき

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怪異と付き合ってきた少女、戦場ヶ原ひたぎ。

おかしいのは自分――異常なのは自分。

そういう考え方が、戦場ヶ原の中には、もう、桁違いなほど頑強に、根付いてしまってい

る。一度でも怪異と行き遭ってしまった人間は――残りの一生、どうしたって、それを引き

摺って生きることになる。多かれ少なかれ、どちらかと言うと――多く。世の中にそういうこ

とがあると知ってしまった以上、たとえそれが無力であっても、知らない振りは、できないの

だ。

だから。

でも、やっと問題から解放された戦場ヶ原は、またおかしくなっただなんて思いたくなく

て、おかしくなってしまっただなんて思いたくなくて、僕にそんなことを思われたくなくて―

―見えていない八九寺のことを、見えている振りをした。

話を、僕に、合わせたのだ。

そうか……。

それで、戦場ヶ原は、あんな、八九寺を無視するような態度を……無視という二文字の言葉

は、この場合、馬鹿馬鹿しいほど、状況に相応しかった。それに、八九寺の方が――戦場ヶ原

を、避けるように、僕の脚に隠れていたのも、同じ理由か……。

戦場ヶ原と八九寺は。

結局一言も、会話をしていない。

「戦場ヶ原……だから、お前、忍野のところには、自分が行くって――」

「訊きたかったから。これがどういうことなのか、訊きたかったからね。訊いたら、窘められ

てしまったけれど――というか、呆れられてしまったようだけれど。いえ、笑われたのかもし

れないわね」

確かに、なんて、冗談のように、滑稽な、話だ。

笑えないくらい。

「蝸牛に行き遭ったのは――僕だったのか」

鬼に行き遭って――次は蝸牛。

忍野も――最初からそう言っていた。

「子供――それも童女の怪異というのは、かなり一般的なものだそうよ。勿論、ある程度なら

私も知っているわ。国語の教科書にだって載っているものね。旅行者を山の中で遭難させてし

まう着物姿の幽霊とか、子供同士の遊びに知らない内に混じってて、遊び終わる頃に、一人、

連れていっちゃう女の子とか――迷い牛っていうのは、寡聞にして知らなかったけれど。あの

ね、阿良々木くん。忍野さんが、こう言っていたわ。迷い牛に遭うための条件っていうのは―

たしな

こっけい

かぶん

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―家に帰りたくないと望んでいること、なんだって。望みっていうには、そうね、それはいさ

さか後ろ向きかもしれないけれど、でも、そのくらい、誰でも考えることだしね。家庭の事情

なんて、誰にでもあるもの」

「……あ!」

羽川翼。

あいつもまた――そうだった。

家庭に不和と歪みを抱えていて――日曜日は散歩の日。

僕と同じに、あるいは、僕以上に。

だから羽川にも――八九寺が見えた。

見えて、触れて――話せた。

「望みを叶えてくれる……怪異か」

「そう言えば確かに聞こえはいいけれど、でもそれって、人の弱みに付け込むと、そう表現す

ることもできるんじゃないかしら。阿良々木くんだって、家に帰りたくないと、本気で思って

いたわけじゃないでしょう。だから、後ろ向きな望みというよりは、そうね、一つの理由とい

うのが正しいんだと思うわ」

「…………」

「けれどね、だからこそ、阿良々木くん。迷い牛への対処はとても簡単なのよ。最初に言った

でしょう? ついていかずに、離れればいいのよ。それだけのことなの」

自ら望んで――迷う。

それはそうだ――理屈は通っている。永遠にどこにも辿り着けない蝸牛の後ろをついて回れ

ば、誰だって、家に帰れるわけがない。

言葉で説明すれば――とても簡単。

羽川が、あっさり、公園を出て行けたように。

帰れば帰れる。

行くモノに、ついていくから、帰れない。

でも。

家に帰りたくない――なんて言っても、結局、人間、帰る場所は、家しかないのだから。

「そんな悪質な怪異じゃないし、そこまで強力

な怪異でもない。まず大きな害はない。そう

言ってたわ。迷い牛は、ちょっとした悪戯――軽い不思議、そんな程度のものなんだって。だ

から――」

「だから?」

僕は遮るように言った。

いたずら

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それ以上――聞いていられなかった。

「だからなんだよ、戦場ヶ原」

「…………」

「そうじゃない、そうじゃないだろ、全然そうじゃないんだよ、戦場ヶ原――話はわかった

し、それに、どっかにあった違和感みたいなもんも、これで確かに綺麗に片付いたけれど――

僕が忍野に訊きたかったのは、そういうことじゃないだろ。博引旁証ご苦労さまじゃあある

が、しかし、そういうのを教えて欲しかったから、僕は戦場ヶ原に忍野のところにまで、行っ

てもらったわけじゃないだろうが」

「……じゃあ、何のためだったの?」

「だから、だ」

ぐいっ――と。

八九寺の両肩を握る手に、力がこも

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