第52章

々木くん」

「なんだよ」

「I love you」

「………………」

変わらぬ口調で、指さして言われた。

………………、と。

更に数秒間考えて、どうやら僕は、同級生に英語で告白された、日本初の男になってしまっ

たようだということを、理解した。

「おめでとうございます」

八九寺がそう言った。

かいもく

またが

190

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

全ての意味で、場違いで的外れな言葉だった。

008

そして、一時間後――十年ほど前、正確なところはわからないが、とにかく十年ほど前に、

少女、生前の八九寺真宵が母の日に目指した場所――あのメモに書かれていた通りの住所の場

所に、僕と戦場ヶ原と八九寺は、辿り着いた。

時間はかかった。

が、しかし――あっさりと。

「……でも、こんな」

とはいえ――達成感はなかった。

目前の光景に、達成感は皆無だった。

「戦場ヶ原――ここで間違いないのか?」

「ええ。間違いないわ」

断言の言葉に、覆る余地はなさそうだった。

八九寺の母親の家――綱手家。

すっかり綺麗な――更地になっていた。

フェンスで囲まれて、私有地、無許可での立入を禁ず――の看板が、むき出しの地面に刺

さって、立っていた。その看板の、端の方の錆び具合からして、随分と昔から、それはその形

であり続けてきたのだろうことは、否定のしようがなかった。

宅地開発。

区画整理。

戦場ヶ原が住んでいた家のように、道にまではなっていなかったが――その痕跡が全く残っ

ていないという点では、同じだった。

「……こんなことってあるのかよ」

忍野メメーあの出不精が提案した、今回に限り使えるだろう裏技というのは、聞いてしまえ

ば、何だそんなことかと思ってしまうような、単純明快極まりないものだった――迷い牛、存

在として蝸牛となっているとは言っても、しかし、怪異としての属性が幽霊であるのなら、そ

こには本質的な情報的記憶が蓄積しない――らしい。

この手の怪異は、存在しないのが基本だそうだ。

かいむ

くつがえ

さらち

こんせき

でぶしょう

191

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

存在として、存在しない、存在。

見る者がいなければ、そこにはない、と。

今日のことに照らし合わせてそれを言うならば、八九寺は、僕が公園のベンチに腰掛けて、

ふと、あの案内図に目を遣ったその瞬間に――そこに現れた、その時点から存在し始めたの

だ、ということになる――らしい。

同じ風に言えば、羽川にしてみれば、ふと、公園を通りかかり、僕が座っている隣に目を

遣ったとき――八九寺はそこに現れたという理屈になるのだろう。怪異として継続的に存在し

ているのではなく、目撃された瞬間に現れる――その意味では迷い牛の場合、行き遭うという

表現も、半分ほどしか内実を言い当てていないのかもしれない。

見えているときしかその場にいない――観測者と観測対象。羽川ならばこんなとき、それを

比喩するのに相応しいであろう理系の知識を惜しげなく披露してくれていたのかもしれない

が、僕はうまいたとえを思いつかなかったし、戦場ヶ原は、知ってはいたのだろうが、わざわ

ざそれを言いはしなかった。

ともかく。

情報的記憶――つまりは知識だ。

僕のような土地勘のない者は勿論、あくまでその付き合いであって、蝸牛が見えてすらいな

い戦場ヶ原でさえ、迷わせることができる――携帯電話の電波をも遮断することもできる。そ

して結果的に――対象を永遠に、迷わせ続けることになる。

が。

知らないことは――知らないのだ。

いや、知っていても、対応はできない。

たとえば、区画整理。

十年前に較べてどころか、去年と較べてさえ、すっかり変わってしまったこの辺りの町並み

――近道でもない遠回りでもない、勿論まっすぐ向かうのでもない――

新しく作られた道ばかりを選択したルートを使えば、迷い牛くらいの怪異では対応できな

い。

怪異が歳を重ねるなんてことはないだろう――少女の怪異はいつまでたっても少女のままだ

――だ、そうだ。

いつまでたっても大人になれない――

わたしと同じ。

十年前に小学五年生だった八九寺……つまり、時系列を整理すれば、僕や戦場ヶ原よりも年

上であるはずの八九寺真宵、しかし、学校でやんちゃしている記憶をつい昨日のことのように

ひゆ お

くら

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?

? ? ? ? ? ?

192

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

語る彼女に、一般的な意味での段階的記憶は存在しない。

しない――

ないのだ。

だから――だから。

古い皮袋に新しい酒――そう言っていたらしい。

忍野の奴、あの不愉快な男は真実、見透かしている――実際には八九寺の姿を見てもいない

癖に、事情だってそこまで深く聞いたわけでもないだろう癖に――この町のことだって、まだ

ほとんど何にも知らない癖に、よくもまあ、そんな、知った風なことが言えるものだ。

だが、結果から言えば、これは成功だった。

最近作られたところであろう、アスファルトが黒々しい道を、まるで阿弥陀くじのように取

捨選択し、古い道、あるいは新しく舗装されただけの道はできるだけ避けて――途中、戦場ヶ

原の家があった道なんかも経由しながら、そして、一時間後。

本来ならば、あの公園から、徒歩で十分もかからないであろう距離に、直線で結べば恐らく

五百メートルにも満たないであろう距離に、一時間以上もかけて――

目的地に、辿り着いた。

辿り着いたけれど。

そこは、綺麗な――更地だった。

「そんな、都合よくいかないってことなのか……」

そうだ。

これだけ町並みも道行も変わっているのに――目的地だけが何も変わっていないなんて、都

合のいいことがあるわけがない。一年足らずの期間をあけたに過ぎなかったのに、戦場ヶ原の

家ですら、道になってしまったのである。そもそもこの計略自体、目的地のそばに新しい道が

なければ、単なる机上の空論に過ぎなかったのだ。必然的に、目的地そのものが変わってし

まっている可能

性は、最初の段階から予測できるほどには、高かったということになる――だ

けど、それでも、そこくらいは都合よく出来上がってくれていないと、全てが台無しじゃない

か。全部、意味なんてなくなっちゃうじゃないか。そこが駄目なら、全部駄目なのに。

世の中はそんなにうまくいかないものなのか。

願いは叶わないのか。

迷い牛の、目的地そのものがなくなっているというのなら――それこそ本当に、彼女は、永

遠に迷い続ける、永遠に漂い続ける、際限なくぐるぐると渦巻き続ける、蝸牛の迷子じゃ――

ないか。

なんて災禍だ。

あみだ

ほそう

ただよ

193

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

試用中

忍野は。

あのサイケデリックなアロハ野郎は、この結末すら――こんな最後すら、見透かしていたの

だろうか。だから、あるいは、それゆえに、わざわざ――

忍野メメは、あれだけ軽薄で、あんなお喋りな調子者だけれど――別れの言葉は決して口に

しないし、訊かれないことには

上一章 返回目录 回到顶部 下一章