第53章

絶対に答えない男なのだ。頼まれなければ動かないし、頼んだ

から応えてくれるとも限らない。

言うべきことを言わなくとも、まるで平気。

「う、うあ」

隣から、八九寺の嗚咽が聞こえた。

あまりの現実に、とにかく驚くことだけに精一杯で、肝心の八九寺のことを、全く気遣えず

にいた自分に思い至り、僕はそちらを振り向く――八九寺は、泣いていた。

ただし俯いてではなく――前を向いて。

更地の上――家があっただろう、その方向を見て。

「う、うあ、あ、あ――」

そして。

たっ、と、八九寺は、僕の脇を抜けて、駆けた。

「――ただいまっ、帰りましたっ」

忍野は。

当然のように――当たり前のこととして、この結末を――こんな最後を、見透かしていたの

だろう。

言うべきことを――言わない男。

全く、最初に言っておいて欲しい。

ここに辿り着いて、八九寺に何が見えるのか。

僕や戦場ヶ原には、ただの更地にしか見えないこの場所を――すっかり変わってしまったと

しか見えないこの場所を、迷い牛、八九寺真宵が見たときに、一体、どんな風景が、見えるの

かということ。

そこに現れるかということ。

開発も整理も――関係ない。

時間すらも。

大きなリュックサックを背負った女の子の姿は――すぐにぼやけて、かすんで、薄くなって

おえつ

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……僕の視界から、あっと言う間に、消えてしまった。

見えなくなってしまった。

いなくなってしまった。

けれど少女は、ただいま、と言った。そこは、別離した母親の実家で、今や自分とは関係の

ある家じゃない、目的のための目的地でしかなかった場所なのに――あの子は、ただいまと

言ったのだ。

家に帰ったときのように。

それは。

とてもいい話のように、思えた。

とても、とても。

「……お疲れ様でした、阿良々木くん。そこそこ、格好よかったわよ」

やがて戦場ヶ原が言った。

いまいち感情のこもらない声で。

「何もしてないよ、僕は、別に。むしろ今回働いたのは、お前だろ。僕じゃないよ。例の裏

技ってのも、土地勘のあるお前がいなかったら、成立しない方法論だったしな」

「確かにそうだけれど――そうかもしれないけれど、そういうことではなく、ね。しかし、ま

あ、更地になっているとは驚いたわ。一人娘が自分を訪ねてくる中途で交通事故にあって――

いたたまれなくなって、家族ごと引っ越したってところなのかしらね。当然、それ以外にも、

理由なんて、考えようと思えば色々と考えられるけれど」

「まあな――そんなこと言っちまえば、八九寺の母親が、今、生きているかどうかも、わから

ないって話になるし」

更に言うなら――父親だって、そうだ。

案外――羽川は、本当は知っていたのかもしれない、と、思った。綱手という家について、

彼女は何か、思うところがありそうだった。もしも綱手家が、何らかの事情でもってここから

いなくなったというのなら――そしてそれを知っていたのなら、羽川は間違いなく、口をつぐ

むだろうから。あいつはそういう奴だ。少なくとも――杓子定規な奴では、ない。

単に、公平なのだ。

ともあれ、これで、一件落着……か。

終わってみれば、非常にあっけない。そして気が付けば、日曜日の太陽は――今やもう沈も

うとしていた。五月の半ば、まだ日は短い……となると、僕もそろそろ、家に帰らないといけ

ない。

八九寺のように。

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そういえば、今日は、夕飯の当番だった。

「じゃ……戦場ヶ原。自転車取りに戻ろうぜ」

戦場ヶ原はあれから、マウンテンバイクに乗ったまま僕と八九寺を先導しようとしたが、マ

ウンテンバイクと徒歩とが行動を共にすることの無意味さ、押して歩く荷物と化した際のマウ

ンテンバイクの無価値さに、言われるまでもなくすぐ気付いたらしく、結局、マウンテンバイ

クはあの公園の駐輪場に、戻しておいたのだ。

「そう。ところで阿良々木くん」

戦場ヶ原は動かず――更地の方角を見たままで言う。

「まだ返事を聞いていないのだけれど」

「…………」

返事って……。

やっぱり、あの件だよな。

「えっと。戦場ヶ原。そのことなんだけど――」

「言っておくけれど阿良々木くん。私は、どうせ最後は二人がくっつくことが見え見えなの

に、友達以上恋人未満な生温い展開をだらだらと続けて話数を稼ぐようなラブコメは、大嫌い

なのよ」

「……さいですか」

「ついでに言うならどうせ最後は優勝することが決まっているのに一試合一試合に一年くらい

かけるようなスポーツ漫画も嫌いだし、どうせ最後はラスボスを倒して平和が訪れることがわ

かりきっているのに、雑魚との戦闘がいつまでたっても終わらないようなバトル漫画も嫌いだ

わ」

「少年漫画と少女漫画を全否定してるぞ、お前」

「で。どうするの」

考える隙も与えないような畳み掛けだった。

とてもではないが、言い逃れが許されるような空気ではない。友達全員を引き連れてやって

きた女子に告白される男子の心境だって、ここまで息苦しくはないだろう。

「いや、お前、ちょっと勘違いしていると思うんだよ、戦場ヶ原。性急っていうか。確かに前

の月曜、お前が抱えてた問題の解決に、僕は少なからず寄与したかもしれないけれど、その、

言うならば恩みたいなものと、そういう感情をごっちゃにしてしまったら――」

「それはひょっとして、危機的状況において男女は恋愛関係に陥り易いという、人間の理性と

いうものを完全にないがしろにし、そういう場合における本性が露呈した仲間同士の険悪極ま

りない空気を全く考慮していないあの馬鹿げた法則のことを意識しながら言っているのかし

なまぬる

ざこ

きよ

おちい やす

ろてい

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ら」

「馬鹿げたって――いや、まあ、そんなものかな? 確かに危険な吊り橋の上で告白するよう

な人間がいたら、そいつはかなりの馬鹿だとは思うが……でも、ほら、お返しがどうとか言っ

てたじゃん、あのときも思ったけれど――お前が僕に、必要以上に恩を感じることなんか……

つーか、事情や背景はどうあれ、やっぱ、恩を売ってそれに付け込むみ

たいな形、僕としては

あんまり、気分よくないんだよ」

「あれは口実よ。主導権を握らせてあげたかったから、阿良々木くんの方から告白させようと

思って、ああいう振りをしてみせただけ。愚かな男。貴重な機会を逃したわね。私が誰かを立

てるなんて、もう二度とないことなのに」

「………………」

すごい言い草だった。

ていうか、やっぱりそうだったのか……。

誘い受けだったんだ……。

「安心して。私は本当のところ、阿良々木くんに、そこまで恩を感じているわけではないの

よ」

「……そうなのですか」

えー。

それもどうなんだろう。

「だって、阿良々木くん、誰でも助けるんだもの」

朝の段階では、そこまで確かに、阿良々木くんのことが、わかっていたわけでは、実感でき

ていたわけではないけれど――と、流暢に続ける戦場ヶ原。

「私だからじゃなかったけれど――でも、そっちの方が、私にはいいわ。助けられたのが

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