ああ……悪いな。じゃ、ちょっと待ってくれ」
尻のポケットから携帯電話を、学ランのポケットから家の鍵を取り出して、それをリュック
サックの中に放り込んでから、忍野に手渡した。「うん」と忍野は言って、スリングを肩に
引っ掛けた。
「しかし――一つだけいいかい? 阿良々木くん」
「なんだよ」
「どうして、自分を殺そうとした相手まで、阿良々木くんは助けようとするんだい? あのお
嬢ちゃんは、無意識とはいえ、願いの裏側とはいえ――阿良々木くんのことを、憎んでいたん
だぜ。阿良々木くんのことを、憎むべき恋敵として、とらえていたんだぜ」
意地の悪い、いつもの軽口――
というわけでも、ないようだった。
「そもそも、雨合羽の正体がお嬢ちゃんだとわかった段階で、阿良々木くんはどうして、お嬢
ちゃんの話を聞こうなんて思ったんだい? 普通はその段階で、問答無用だろうに――その時
点で、お嬢ちゃんをすっ飛ばして、僕のところに来るのが本当だっただろうに」
「……生きてりゃ、誰かを憎むことくらいあるだろうさ。殺されるのはそりゃ御免だけれど、
神原が、戦場ヶ原に憧れてたっていうのが、その理由だっていうのなら――」
怪異にはそれに相応しい理由がある。
それが理由だったとするなら――
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「別に、許せるしさ」
忍野の言う通り、僕の最初の考えで正しかったとするのなら、その状況から、何も変わって
いない。最初に戻っただけだ、猿の手もレイニー?デヴィルも全く関係がない。まさか恋敵と
思われているとまでは想定外だったけれど、でも、それでも。
姑息な計算。
腹黒い未練。
僕だって、優しくていい人なのかもしれないけれど、羽川のように、清廉潔白の善人という
わけでは、ないのだから。
羽川翼。
異形の羽を、持つ少女。
……あいつだけは、本当に、はっきりと、羨ましい。
本当――妬ましいくらいに。
「あっそ。まあ、それが阿良々木くんの決めたことなら、それでいいんだけれどね。全然構わ
ないさ、僕の知ったことじゃない。じゃあ、まあ、とりあえず阿良々木くん、お嬢ちゃんに
力、貸してあげなよ。言っとくけど、中に入ったら、ことが終わるまで、もう出られないから
ね。内側からは、絶対に、扉、開かなくなっちゃうから。逃げの選択肢は最初からないものと
構えておくこと。後には引けないって状況がどれほどのものか、春休みのことをよーく思い出
して、覚悟決めとかなくちゃ駄目だよ? ……勿論、何があっても、僕や忍ちゃんが助けに現
れるなんてことはないから。忘れないでね、この僕が常軌を逸した平和主義者にして機会を逸
した人道主義者だってことを。阿良々木くんがこの教室に入ったのを見届けたら、僕は四階へ
寝に行くから、後のことは知らないよ。阿良々木くんもお嬢ちゃんも、帰るときは、別に挨拶
しなくていいからね。その頃には忍ちゃんも眠っちゃってると思うし、勝手に帰って頂戴」
「……世話かけるな」
「いいよ」
忍野が壁から背を離し、扉を開けた。
躊躇せず、中に這入る。
すぐに忍野は、扉を閉めた。
これでもう、出られない。
二階の一番奥の教室――造りは先ほどの四階の教室と一緒だけれど、ここはこの学習塾跡の
中で、唯一、窓の部分が抜けていない教室だ。とは言え、それは、他の教室のように、窓が硝
子の破片と化していないという意味ではない。そんな有様になってしまった窓の枠に、まるで
昔の台風対策のごとく、分厚い木の板が何枚も、釘で打ち付けられているという意味だ。どう
ねた
はい
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してそこまでというくらい、執拗に、何枚も何枚も、である。だから、扉を閉じてしまえば、
光は一条も差し込んでこない――既に時間は真夜中だが、星の光さえ、差し込んでこない。
真っ暗だ。
けれど――見える。
忍にたっぷりと血を与えたばかりの今の僕には、この暗闇の中が、暗いままに見通せる。そ
う、この状態の僕は、暗い方がよく見えるくらいなのだ――僕はゆっくりと視線を動かした。
すぐに見つける。
そう広くもない教室の中に一人佇んでいた――
雨合羽の姿を。
「……よう」
声を掛けてみるが、反応はない。
既にもう――トランス状態らしい。
身体は神原駿河だが――左腕と、今の魂は、レイニー?デヴィルだというわけだ……ちなみ
に雨合羽は、僕が忍に血を飲ませている間に、一番近い雑貨屋まで、神原がひとっ走り行っ
て、手に入れてきたものである。別に雨合羽自体は、必要ないといえば必要ない、少なくとも
必要不可欠ということはないだろうオプションとしてのアイテムなのだが、その辺は例によっ
ての雰囲気作り、状況設定のセレモニーという奴である。
教室の中にあった机や椅子は、邪魔だからという理由で、最初に撤去しておいた――だから
今、この教室の中にいるのは、神原と僕だけということだ。レイニー?デヴィルの左腕と、吸
血鬼もどきの人間以外だけということだ。
中途半端同士、いい勝負だろう。
いや――違った、いい勝負じゃ、駄目なんだ。
僕は悪魔を圧倒しなくてはならない。
昨夜と同じだ、雨合羽のフードの内側は、深い洞のようで、その表情も、どころか中身その
ものが、全く窺えない――
「……………………」
レイニー?デヴィルや猿の手に限らず、願いを叶えるタイプの怪異への対処法としてもっと
もスタンダードなものは、その怪異では叶えられない願いを願うことだ。
大き過ぎる願い。
あるいは、撞着した願い。
絶対に不可能な願い。
ダブルバインドの板ばさみに落とし込む願い。
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どうちゃく
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つまり底の抜けた柄杓だよ、と忍野は言った。そうすることで、怪異を退けることができ
る、怪異を見越すことができるのだ――とか。
ただし、この場合は、神原は既に願ってしまっている――戦場ヶ原のそばにいたいと。そし
て、その想いのために――阿良々木暦が邪魔だと、阿良々木暦が憎いと、阿良々木暦を殺した
いと、無意識に、願ってしまっている。レイニー?デヴィルは、その願いに、そのまま、答え
ようとしている。
願いはキャンセルできない。
一度でもそう思ってしまったのだから仕方がない。
ならば、理屈を裏返そう。
その願いこそが不可能であればいいのだ。
阿良々木暦がレイニー?デヴィルごときでは殺せない存在であったならばいい――
「理屈と膏薬はどこにでもつくって奴か――これもいまいち詭弁っぽいけど、猿知恵の猿芝居
もいいところだけれど、それでも落としどころとしちゃあ……っと、おっと!」
何がきっかけになったのかわからないが――雨合羽は僕に向かって、突如、跳んできた。神
原駿河の跳躍力――それが、恨みのパワーで、強化されている。通常ならば、昨夜と同じく目
にも留まらない速さだろうけれど――今は違う。
見えるし。
それに、反応でき――
「て、う、うわっ!」
僕は自分の胴体を遠心力でねじるような形で、雨合羽の