ボール部のエース。
切り落としてくれ――と彼女は言った。
忍野から、その左腕が猿の手ではなく悪魔の手であり、願いは、神原が願った通りに叶えら
れただけだという、ロクでもない、暴かれなくてもいいような真相を、暴かれてしまった直後
……数秒だけ目を伏せた後で、しかし気丈に顔を起こし、僕と忍野を交互に見て、そう言っ
た。
「こんな左手、いらない」
神原は言った。
さすがに、あの笑顔は、表情にはない。
それは――奇しくも、彼女の尊敬する先輩の、現在のパーソナリティ……平坦で、淡白で、
感情を感じさせない、口調だった。
「切り落としてくれ。切断して欲しい。頼む。面倒かけるが、お願いする。自分で自分の腕を
切り落とすことはできないから……」
「や、やめろよ」
僕は慌てて、差し出されたような形のその腕を、神原に押し返すようにした。毛むくじゃら
な感覚が、手に気持ち悪い。ぞわっとする。
ぞっとする。
「何馬鹿なことを言ってんだ――できるわけがないだろ、そんなこと。バスケットボールはど
うするんだよ」
「さっき忍野さんに言われた通りだ。私は、人間一人を殺そうとしたのだぞ。それくらい、当
然の代償だろう」
「い、いや――神原、僕はそんなこと、全然、気にしてないって――」
く
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滑稽、道化。
なんて的外れな言葉だったのだろう。
僕が気にしているかどうかという問題じゃない。
まして、僕が許せるかどうかも、この際、本来的には全く関係ないのだ――問題は、神原駿
河が、神原駿河を許せるかどうかということだった。
同級生を傷つけたくないからと、走り続けた彼女。
ネガティヴな感情を全て抑えつけ、圧倒し。
封じ込めてきた、彼女。
その意志の強さが――逆に、自身を縛りつける。
戒める。
「だ、大体、切り落とすなんて、ありえないだろ、そんなこと。馬鹿なこと言ってんじゃねえ
よ。何考えてんだ。馬鹿、お前、本当に馬鹿だよ。何でそこまで物事を、短絡的に考えてるん
だ。本気にするようなアイディアじゃないだろう」
「そうか。そうだな、腕を切り落とすなんてこと、誰かに頼むべきことではなかったな。頼ま
れたからといって、はいそうですかと実行できるようなことでもないか。わかった、自分でな
んとか、その方策を考えよう。自動車や電車の力を利用すれば、どうにかなるだろうから」
「それは――」
自動車や電車なんて。
それじゃあ、まるで自殺じゃないか。
自殺行為じゃなく――自殺そのもの。
「切り落とすなら、いい方法があるよ? 阿良々木くん、どうして教えてあげないんだい、
困っている人間に対して不親切だなあ。そんなの、忍ちゃんに協力してもらえばいいんじゃな
いか。刃の下に心あり――彼女の虎の子のブレードを使用すれば、痛みを感じる暇もなく、そ
の左腕を切断することが可能だろう。今の忍ちゃんのブレードじゃ、往年の切れ味はないだろ
うけれど、それでもお嬢ちゃんの細腕を切り落とすくらい、豆腐でも切るように朝飯前だよ―
―」
「黙ってろ、忍野! おい神原! そんな思いつめるようなことじゃないだろう! お前が責
任を感じることなんて、ちっともないんだ――そんなの、はっきりしてるじゃないか! これ
は全部、猿の手……じゃない、レイニー?デヴィルとかいう怪異が元凶で――」
「怪異は願いを叶えただけだろう?」
忍野は黙らなかった。
尚も雄弁に尚も能弁に、言葉を繋ぐ。
げんきょう
ゆうべん のうべん
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「求められたから、与えただけだろう? ツンデレちゃんのときも、そうだったんじゃないの
かな? 春休みの阿良々木くんのときはケースが違うんだよ。忍ちゃんのケースはそれとは全
然違う――阿良々木くん、きみは怪異に何も願わなかったんだ」
「…………」
「だから――阿良々木くんに、お嬢ちゃんの気持ちはわからない。お嬢ちゃんの自責もお嬢
ちゃんの悔恨もわからない。決して」
そう言われた。
「ちなみに、原典の『猿の手』において、最初に猿の手を使った人間は、一つ目の願い、二つ
目の願いを叶えた後、三つ目の願いで、自分の死を願ったそうだ。その願いが何を意味してい
るのかなんて、いちいち説明の必要があるのかい?」
「忍野――」
言っていることは、正しい。
でも、忍野、お前は間違っている。
僕は雨合羽に相対したまま――膠着状態に陥ったがごとく、動けなくなった中で、ゆっくり
と回想する。
だって、僕にはやっぱり、わかるんだから。
痛いほど、心の傷が、痛むほど。
戦場ヶ原ひたぎの気持ちも。
神原駿河の気持ちも、わかるんだから。
いや、やっぱりわからないのかもしれない。
ただの傲慢な思い上がりなのかもしれない。
でも――
僕達は、同じ痛みを、抱えている。
共有している。
願いを叶えてくれるアイテムが目の前にあって、そのとき願わないと、どうして言える?
僕の春休みと同じく、それは願った結果というわけではないにしたって、清廉潔白の善人であ
る羽川でさえ、ほんのわずかな、不和と歪みによって、猫に魅せられてしまったのだから――
僕と忍との関係だって、本来的に、戦場ヶ原と蟹との関係、神原と悪魔との関係と、何も変
わらないんだ。
「構わない、阿良々木先輩」
「構うよ――構わないわけ、ないだろう。何言ってんだよ。それに、戦場ヶ原のことはどうす
るんだよ。僕は、お前に、戦場ヶ原と……」
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?
こうちゃく おちい
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「もう、いい。戦場ヶ原先輩のことも、もういい」
神原は、それこそ身を切るような言葉を、口にした。
「もう、いいから。諦めるから」
いいわけあるか。
諦めて、いいわけがあるか。
願いは自分で叶えるものだと――お前の母親は、悪魔の木乃伊を、お前に託したはずだろ
う。決して、願いを諦めることを教えるためなんかじゃなかったはずだ――
だからそんな顔をするな。
そんな深い洞のような顔をするな。
そんな泣きそうな顔で――何が諦められる。
レイニー?デヴィル。
雨降りの悪魔――そして、泣き虫の悪魔。
そもそもは、しとしとと降る糠雨の日に、つまらないことで親と喧嘩をして家を飛び出し、
山に迷い込んで野猿の群れに喰い殺された子供が、その起源だとされる。不思議なことに、家
族を含め、集落の者は誰も、その子供の名前を思い出せなかったという――
「……畜生!」
膠着状態に、精神的に耐えられなくなって――まるで走馬灯みたいに巡る思考に耐え切れな
くなって、僕は雨合羽に向かって、駆け出した。それは昨夜から数えても、初めて僕の方から
の、受身ではない攻撃行動だった。プレッシャーのかかる邀撃の姿勢に、とうとう我慢できな
くなってしまったと言ってもいい。
立ったままの姿勢じゃ駄目だ。たとえ再び左腕を押さえつけたところで、すかさずそこに蹴
りが来る。ならば柔道の寝技のように、あるいはレスリングのように、雨合羽の全身を組み敷
くくらいの気持ちで、身体ごとぶつかっていかないと――
左